ソ連崩壊前後の激動の時代、サハリン州のかじ取りを担った。モスクワの大学副学長から州執行委員会議長(知事)に転じて間もない1990年6月、ユジノサハリンスクを訪れた横路孝弘知事(当時)に提案した。「まっすぐ稚内から北海道を訪問したい」。宗谷海峡の「鉄のカーテン」に風穴をあける決意の表明だった。(北海道新聞2021/4/9)
稚内へのソ連人入域は厳しく制限されていた。道は外務省などと交渉。8月2日の訪問にこぎ着けた。「迎えた札幌は暑かった。連れだって大通公園のビアガーデンへ。壇上のあいさつを促しました」と横路さん。「『100年たっても、千年たっても私たちは隣人同士。仲良くしたい』―。拍手がわき、枝豆やソーセージが差し入れられた」
そして同27日、横路さんは「前例のない」患者移送の要請を受ける。重いやけどを負った3歳のコースチャ(コンスタンチン・スコロプイシュヌイさん)の受け入れ。83年の大韓航空機撃墜事件の記憶が鮮明な中、海上保安庁のYS11機が翌28日に往復し、札幌医科大の緊急治療が実現した。「フョードロフさんは大胆で柔軟で、スピーディーだった」と横路さんは振り返る。
91年の8月クーデター後、エリツィン・ロシア共和国大統領(当時)の行政改革で知事に任命。だが、経済学者出身として意を注いだ自由経済地域構想は宙に浮き、州議会との対立で93年4月に辞任した。記者は、前年夏にハバロフスク空港で質問をした時の笑顔と、東京に向かう新幹線グリーン席にぽつねんと座る姿が忘れられない。辞任後もロシア経済次官などの職務は長く続かなかった。
横路さんは裸のつきあいもした。「サハリンのサウナでのことだったと思う。資本主義について問われ、三国志の英雄、関羽の義理人情の話をして『約束を守ることだ』と言いました。投資や善意がほごにされることがあったからです。思い出が尽きない。本当に印象的な人だった」(編集委員 藤盛一朗)
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