北方四島に残存か 調査模索 <根室 トーチカは語る>下 

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(北海道新聞2021/4/3)

  北方領土国後島の砂浜で、ビザなし渡航で訪れた参加者が遠くを指さす。その足元に、コンクリート製の箱状の建造物が見えた。

 「これ、トーチカでは?」。根室の自然や歴史を調べる市民グルーブ、北方地域研究会の髙橋隆一さん(59)=根室市=はビザなし渡航の報告書に載った数年前の写真を見て気付いた。色丹島歯舞群島で撮られた写真にもトーチカとみられる建造物が写っていた。

■実態わからず

 トーチカは第2次世界大戦末期、米軍がアリューシャン列島から千島列島を経由して道内に上陸すると想定して造られた。道東を中心に77基の現存が確認されており、北方領土に旧日本軍のトーチカがあっても不思議ではない。

 しかし、自由に行き来できない北方領土では調査が行われず、その実態は分かっていない。

 髙橋さんは国後島サクマンベツ出身の母親を持つ元島民2世。1998年~2000年の3年間、根室半島に当時15基あったトーチカを仲間と一緒に調査し、写真とともに寸法、位置などを報告書にまとめた。

 だが、それ以降、トーチカの調査は途絶え、研究会も休眠状態にある。高橋さんが北方領土返還運動に係わるようになり、会社の仕事も忙しくなったためだ。

 北方領土問題とトーチカ。「同じ第2次世界大戦が引き起こしたことなのに、トーチカへの関心は薄い」。両方に関係する髙橋さんは反省を込めて語る。

 道は15年度から3年間かけて北方領土ゆかりの建物や逸話を掘り起こし「北方領土遺産」を選定した。根室管内と四島に残る有形・無形の遺産を後世に引き継ぎ、領土問題への関心を深めてもらうのが狙いだ。

 中には根室国後島を結ぶ海底ケーブルの根室側中継施設「陸揚庫」も含まれる。近年、保存の必要性が再認識され、国の文化財指定に向けた手続きが進む。

 髙橋さんは、日本建築学会北海道支部の研究チームによるトーチカの調査に招かれた。20年ぶりに本格的な調査に参加し、想像以上の劣化を目の当たりにした。「このまま朽ち果てるのを見るのは悔しい」と改めて思った。

■ビザなし利用

 北方領土ビザなし交流の専門家枠を利用して四島のトーチカを調査し、根室に残る一部は保存できないか–。戦争を今に伝える建造物は「子供の教材になる」と高橋さんは考える。

 戦時中、根室は米国と旧ソ連の標的になった。「根室北方領土を一体のものとして調査すると、旧日本軍が道東をどう守ろうとしたのか、より明らかになるのではないか」。トーチカから学ぶことはたくさんあるという。

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根室 トーチカは語る>上 大戦下 人、金不足を反映

(北海道新聞2021/3/30)

 根室市の太平洋側、落石地区の海岸線をしばらく歩き、砂浜から急斜面を上る。草むらから高さ約3メートル、幅約4メートルのコンクリートの壁が顔を出す。

 土の中に築かれた戦時中の防御陣地「トーチカ」の一部だ。下部に小窓のように銃眼が開けられている。

 「見つけた。やっぱりここだった」。昨年11月、日本建築学会北海道支部の研究チームによる調査に参加した釧路高専の西沢岳夫准教授(52)と、同支部歴史意匠専門委員の小野寺一彦さん(63)=帯広市=は喜び合った。

■米軍迎撃狙う

 トーチカは旧日本軍が第2次世界大戦末期の1944年(昭和19年)から45年にかけて造ったコンクリート製の箱型建造物だ。米軍の上陸を想定し内部から米兵を銃撃するのが目的だった。小野寺さんによると、道内では東胆振以東の太平洋側と、根室半島から網走にかけてのオホーツク海側に少なくとも77基が残る。

 根室市内では20年前、市民グループが15基を確認し、うち13基が現存する。44年に旭川から帯広に移った旧陸軍第7師団司令部に近かった十勝管内大樹町の18基に次ぐ多さだ。同支部の研究チームは調査を基に、一つ一つの位置、写真などをまとめ、台帳を作ることを計画している。

 トーチカは結局、実戦で使われず終戦を迎えた。だが朽ちてゆくコンクリートの塊から読み取れることは少なくない。

■お粗末な造り

 西沢准教授は、根室市内のトーチカのお粗末さを指摘する。コンクリートを流し込むための木製の型枠は、完成時に取り除かれるはずだが、一部が壁に残されているという。

 小野寺さんはコンクリートの質の悪さに注目する。セメントの量が少なく、十勝管内のトーチカと比べても劣化が早いという。「第7師団司令部から離れ、セメントなどの材料が手に入りにくかったのではないか」と推測する。

 根室のトーチカ群構築を指揮した旧陸軍第33警備大隊長、大山柏(1889~1969年)は43年末に着任した。大山は日露戦争満州軍総司令官だった大山巌の息子である。

 大山柏は回顧録でこう嘆く。「石炭ストーブはなく、防寒服もない」「公金まで足りず、私自身の家屋敷を抵当に銀行から金を借りる段取りに追い込まれた」「少し油断すると、とんちんかんの陣地ができあがる」。資材、資金、人材不足の深刻さが浮かび上がる。

 西沢准教授は「トーチカは歴史を後世に伝える生き証人だ」という。トーチカが静かに語る物語に耳を傾けてみたい。(根室支局の武藤里美が担当し、3回連載します)

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根室 トーチカは語る>中 遠のく記憶、劣化が拍車

(北海道新聞2021/4/1)

 人材や資材、資金が不足する中、なぜ旧日本軍は根室半島にトーチカを造ったのだろう。

 根室の戦争の歴史に詳しい根室空襲研究会の近藤敬幸事務局長(90)は「終戦に近づくにつれ、千島列島から根室半島までの一帯が戦争の最前線になったためだ」と語る。

■想定外の空襲

 旧防衛庁防衛研修所編集の「戦史叢書(そうしょ)」によると、1943年(昭和18年)、日米激戦地、アリューシャン列島アッツ島の守備隊が玉砕し、キスカ島の守備隊も撤退した。劣勢が明らかになる中、旧日本軍は米軍が千島列島や道東から上陸すると想定していた。

 そこで、道東防御を命じられた旧陸軍第33警備大隊長、大山柏は「根室半島に侵入する敵を阻止し、軍主力のその後の作戦のための要地を確保する」との構想を立てる。無理をしてでもトーチカの建設を急がなければならなかった。

 しかし、米軍は海からではなく、空から来た。45年7月の根室空襲で少なくとも394人が犠牲になり、市街の8割が焼失した。

 いま市内に戦時の面影を残す建物はほとんど残っていない。皮肉にも戦争で使われなかったトーチカが、その記憶を今に伝える数少ない建造物と言える。

 そのトーチカが時間の経過とともに少しずつ姿を消している。

 本土最東端の納沙布岬に近い歯舞地区のトーチカもその一つ。巨大津波に備えた漁港整備に伴い、昨年夏に取り壊された。根室では以前にも別の地区にあったトーチカが道路造成のために撤去されている。

■私有地に多く

 その性質上、海岸付近に造られ、波風の影響を受けやすく、劣化も進みやすい。日本建築学会北海道支部の研究チームによる調査でも、20年前と比べると崖から落下して崩壊したり、自重で砂の中に埋もれたりしているトーチカが少なくないことが分かった。

 法律や条例で保護される文化財と違って、トーチカの保存は容易でない。十勝管内大樹、広尾両町は町有林にあった各1基を「戦争遺産」と位置付け、案内板や見学路を整備している。

 だが、根室には私有地にあったり、私道を通らないと近づけなかったりするトーチカが多い。根室市歴史と自然の資料館の猪熊樹人学芸員(44)は「土地の所有者に、できるだけ壊さないでほしいとお願いするしかない」という。

 現時点ではトーチカを見回り、写真撮影や実測調査をするしかないのが実情だ。それでも猪熊学芸員は「いつかトーチカの価値が見直されるかもしれない。後世の人が研究するときのために、記録を残しておく必要がある」と話している。

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