今朝は冷え込んだ。根室の最低気温はマイナス7.9度だった。ここ数年、足先や指先がやけに冷えるので、朝起きると、靴下を重ね履きするのだが、今朝は毛糸の靴下1枚だけで、つま先までぬくもっている。
なるほど、これが猪谷さんの靴下か、と感心する。
今年5月2日付の北海道新聞「朝の食卓」に、「国後島のまれびと」と題して、1929年(昭和4年)に国後島の古丹消にふらりとやってきて、6年暮らした猪谷六合雄さんのことを書いた。猪谷さんは、日本スキー界の草分け的存在で、現上皇が皇太子のころにスキーの指南役も務めた人だ。国後島での6年間で、2つの山小屋と大小7つのジャンプ台を造り、島民にスキーの作り方から滑り方、はては独自開発したスキー用靴下の編み方まで教えた「まれびと」である。
「朝の食卓」で猪谷さんの記事を読み、懐かしくなったという根室市在住の元島民のおばあさんから連絡をもらった。聞くと、古丹消に住んでいた父親が猪谷さんから靴下の編み方を教わり、いまも父から受け継いだ靴下を編んでいるという。
そのおばあさんのことを『「猪谷式」靴下を編み継ぐ』と題して、6月9日付「朝の食卓」で紹介した。しばらくして、今度は羅臼に住んでいる別のおばあさんから連絡がきた。「私も、猪谷さんの靴下、編んでるんですよ。国後島の東沸に住んでいたおばあちゃんから教わったんです」というので、羅臼まで話を聞きに行った。
今朝、履いている猪谷さんの靴下は、羅臼のおばあさんがわざわざ編んで送ってくれたものだった。「猪谷さんのうちに通って編み方を習ったおばあちゃんから教えられたんです。
靴下を編んでくれたおばあさんは、根室管内標津町の生まれで、島で暮らしたことはない。母親は東沸生まれだが、昭和の初めに標津に嫁いでいたのだった。東沸で郵便局をしていたおばあちゃん家族がソ連軍の侵攻を受けて、島を脱出。引き揚げ先の標津で一緒に暮らしていた時に、編み方を教わったのだという。
「ものがない時代でしたから、綿糸をほどいて3本にして、毛糸に混ぜて編んでいたんですよ」
「猪谷さんの家は自動扉だったんですって。おばあちゃんたちが言ってました。ひもの先に石がくくりつけられていて、ちょっとさわると自動で開いたそうです」
猪谷さんの靴下は暖かいのはもちろんだが、足首のあたりが少しくびれていてサポーターのようにフィットして、ずり落ちてこない。踵やつま先が厚く編み込まれているので丈夫にできている。究極のスキー用の靴下を作ろうとした猪谷さんの知恵と工夫が詰まった靴下だ。
編んでくれた、おばあさんへのお礼に、チリ人のかみさんが手作りしたクリスマス用の特性パンを贈ると、とても喜んでくれた。
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