(はじまりを歩く)スケート(朝日新聞2020/12/12)
凍りつくような海の上を風が吹きすさぶ。厳冬期には零下10度にまでなる北海道東部の根室市。
台地状の地形が広がり、雪は少ない。これからの季節の人気スポーツといえばスケートだろう。夜間照明付きで1周400メートルある市営の屋外リンクだけでなく、教職員や生徒らが学校の校庭に水を入れてつくる臨時リンクもあちこちに登場する。
「五輪選手も出たんです」と市民は誇らしげに言う。1984(昭和59)年のサラエボと88年カルガリーの両冬季五輪でスピードスケートの日本代表選手となった浜谷公宏さん(57)である。「朝から晩まで遊びながら滑ったことが私のスケート人生の根底にあることは間違いありません」。母校の小学校の開校100周年記念誌には思い出が書かれている。6年生のときは1000メートルで2分ジャストの記録を出したという。
「根室は日本のスケート発祥の地なのですよ」と市長の石垣雅敏さん(69)が教えてくれた。えっ? 日本人にスケートを初めて伝えたのは1877(明治10)年、札幌農学校(現在の北海道大)に赴任した米国人教師ブルックスというのが定説とされているのではないか――。
「いえいえ、もっとさかのぼるのです」と石垣さんは話を続けた。
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時計の針を江戸時代後期の1792年10月20日に戻す。日本に通商を求め、ロシア使節アダム・ラクスマンが日本人漂流民の大黒屋光太夫らとともに根室に来航した年だ。知らせを受けた幕府は大騒ぎになった。
返事を待つため、ラクスマンは現在の根室港の内側に船を停泊させ、陸上には臨時の宿舎を建てた。ガラスの窓付きだったという。
やがて厳しく長い冬がやってきた。流氷がオホーツク海を南下し、狭い湾内でぶつかり合い、一晩で大きなスケートリンクのように凍結してしまったにちがいない。でもラクスマンたちは喜んだだろう。
氷上を滑る様子を記録したとみられる絵が江戸期の文書「魯斉亜(ロシア)」に描き残されている。記録者は分からないが、写本が愛知県刈谷市の図書館に所蔵されているという。
私は刈谷市を訪ねた。閲覧許可を事前に申請して見せていただくと縦26センチ、横18センチ、23枚ほどの和紙が糸でとじられていた。驚いたのはスケートする絵である。確かにロシア人らしい長髪の人物が氷上を滑走する後ろ姿が描かれている。その場にいたかのようなリアルさである。
そしてこう書かれていた。
「足ニ図ノ如(ごと)キ物ヲハキテ氷上ヲスリ游(あそ)フ其(その)早キ事鳥ノ如シ」
「或(あるい)ハ一足或ハ両足或ハマワリ或ハカエシ身躰(しんたい)ノ自由ナル」
スケートを意味するらしい「コーニキー」という言葉がカタカナで書かれ、スケート靴の描写もある(事は合略仮名で表記)。鉄製で刃の厚さは「二分位」(約6ミリ)。足を乗せる台やひもも描かれ、「魯斉亜開闢(かいびゃく)ヨリ寛政四年マテ千七百九十二年」とあった。筆者は分からないが、光太夫が語ったことを記したらしい。「刈谷藩の藩医・村上忠順(ただまさ)が中心となって収集した史料(村上文庫)の中にあったのですが、ロシアのことを記録した文書が刈谷市にあるなんて不思議な話ですね」と司書の夏目昌代さんは話す。
いずれにしてもラクスマンは軍人でもあり、運動神経も良かったのではないか。まさに水鳥のように、氷上で軽やかに弧を描いたのだろう。
■サウナも造り、日ロ交流の芽
当時のロシアについては江戸時代の蘭学者、桂川甫周(ほしゅう)も書き残している。根室でロシア人が氷上を滑った話も聞いたにちがいない。
そのとき履いたものに近いとみられるスケート靴が「根室市歴史と自然の資料館」に保管されている。資料館学芸員の猪熊樹人さんの案内で展示フロアを訪ねると、木製の台の下に、先端が上に曲がった鉄製の刃が付いたスケート靴がガラスケースの中に置いてあった。
そのうちの一つは、オランダ北部のフリースランドで1880年代に使っていたものという。木製の台と刃がつながっており、かかと部分には金属ねじが入っている。足の甲の部分と固定するため、革のベルトもついていた。
「スケートのルーツはヨーロッパとされていますが、情報が少ない。なのでスケートについて古い伝統を持っているオランダの資料を集めて研究しています」と猪熊さん。
寄贈したのは根室出身の銅版画家で武蔵野美大名誉教授・池田良二さん(73)。2011年1月、カナダにあるアルバータ州立大の美術館のオープニングセレモニーに招かれた際、故郷根室でのスケートの歴史を話したところ、芸術デザイン学部長から贈られたスケート靴だという。
「たしかに刈谷の図書館に所蔵されている絵を見ると、そっくりですね」と池田さん。13世紀ごろまでは牛の「すね」の部分の骨がスケート靴の刃に使われていたそうである。
池田さんは1994年10月、根室市庁舎横の公園に、ラクスマンが乗っていた帆船エカテリーナ号の船首をイメージしたモニュメント「歴史の然(ぜん)」を建てた。高さ4メートルほど。「私たちにとってロシアは隣人。北方領土問題など政治的には難しい問題もあるが、かけがえのない友人なのです」。同月、根室沖を震源とするマグニチュード8・2の北海道東方沖地震が起きたが、モニュメントはびくともしなかった。
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ラクスマンの話に戻る。8カ月間の根室滞在中、スケート以外に何をして過ごしたのだろう。記録によると日本の地図を模写し、植物や貝類などを採取していたという。
面白いのはロシア風蒸し風呂も造ったこと。いわゆる「サウナ」である。ロシアでは汗を流しながらシラカバの小枝の束で一緒に入っている人の体をたたくのが流儀とされる。信頼を深める手段の一つなのだろう。まさに「裸の付き合い」である。根室にいた日本の役人もサウナに入ったのだろうか。ありえない話だろうが、想像するだけで楽しい。
ロシア語の辞典も編纂(へんさん)された。「根室はロシア研究発祥の地。ここに来ると、ロシアと日本の歴史的な関係がよく分かる」と札幌大の川上淳教授(日本北方史)は話す。
いずれにしてもラクスマンは松前藩に向かい、幕府側と交渉。長崎へのロシア船の入港が許可され、ラクスマンは帰国する。そして1804年、レザノフが長崎に来航し、通商を求めた。幕府は鎖国を理由に国外に退去させたが、11年にはロシア艦長ゴローニンが国後島で捕らえられる事件が起きた。釈放に尽力したのは豪商・高田屋嘉兵衛である。これをきっかけに日露関係は改善され、55年、日露和親条約が締結される。
その嘉兵衛の像が根室の丘に立っている。オホーツクの風を受けながら「国境の街」を見つめている。(文・小泉信一 写真・豊間根功智)
■余話
1641年、平戸のオランダ商館を長崎の出島に移した江戸幕府。オランダ船と中国船以外の来航を禁じ、鎖国を断行した。だが1792年9月、ロシア使節アダム・ラクスマン=写真、函館市中央図書館蔵=ら42人が乗った帆船エカテリーナ号がシベリアの都市オホーツクを出港。同年10月、日本との通商を求めて根室にやってきた。船は2本マストの中型帆船。長さ約27メートル、幅約5メートルだったという。対応したのは根室に詰めていた松前藩の役人。ロシア人来航の知らせは幕府にも伝わった。
当時のロシアは、女帝エカテリーナ2世が強大な権力を持ち、高価な毛皮を求めてシベリアを東進していた。弾薬や食料、日用品の補給基地としても日本は重要な存在だった。伊勢(現在の三重県)の船頭だった大黒屋光太夫のような日本の漂流民を通じ、日本の地理や経済、文化、言語などを研究。根室来航にも光太夫ら3人の日本人を伴っていた。だがそのうちの小市は越冬中に病死。光太夫と磯吉は日本側に引き渡された。
ラクスマン来航から200年の1992年。根室では記念イベントが開かれ、ピロシキなどロシア風のおかずが入った弁当も発売された。北方四島に住むロシア人とのビザ無し交流が始まったのも同年。カニやウニを積んだ船が頻繁に入港するなど日ロの経済交流が進んだ。いまも街のあちこちにロシア語の看板が立っている。
■味わう
太平洋とオホーツク海に囲まれた根室市。うまいものといえばカニやウニ、サケやサンマなどの魚介類が挙げられるが、オリジナル洋食「エスカロップ」=写真=も根室名物の一つだ。
タケノコやタマネギなどをまぜて炒めたバターライスの上に、デミグラスソースをかけたトンカツや牛カツをのせた料理。1963年に市内の喫茶店が始めたという。「カツレツ用の切り身肉」というフランス語に由来するといい、略称「エスカ」。歴史を記したパンフレットには11店が載っており、鹿肉のエスカもある。市役所の食堂では一般客も食べることができる(600円、平日のみ)。
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