朝日新聞北海道版に「原節子と北海道」という記事が掲載されていました。幻の北方領土映画として「生命(いのち)の冠」が取り上げられています。1936年(昭和11年)に国後島でロケを敢行し、同年6月に公開された内田吐夢監督の映画「生命の冠」は、戦前の国後島の情景を映像として今に伝える、おそらく唯一の映画です。元島民によると、船酔いがひどく原節子は国後島には渡らなかったといいます。
北方領土遺産:映画「生命の冠」…④野田工場長が撮影した国後島ロケ写真
北方領土遺産:映画「生命の冠」…⑤撮影スタッフ・俳優陣と女工さんたちの記念写真
■無名時代 幻の北方領土映画
圧倒的な美貌と気品――。今も永遠の輝きを放つ原節子は、戦前戦後の日本映画黄金期を駆け抜けた、伝説の女優である。
華やかな活躍の後、1962年に42歳で出演した作品を最後にスクリーンから突如として去り、以後、頑(かたく)なに半世紀以上も社会との関わりを完全に絶って隠棲(いんせい)生活を貫いた人でもある。2015年に95歳で没したが、生きていれば今年で百歳。すなわち本年は「原節子生誕百周年」にあたる。
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彼女の生涯には、「激動の昭和」が色濃く影を落としている。1920年、横浜生まれ。父は生糸貿易に携わり、暮らしぶりは悪くなかった。ところが、29年のニューヨーク株式市場に端を発した世界大恐慌の影響で父の事業が暗転。成績優秀で「将来は学校の先生になりたい」と夢見ていた少女は、やむなく女学校を中退し、家計を助けるため映画界入りする。まだ14歳だった。やさぐれた撮影所の雰囲気に、生真面目な少女はなかなか、なじむことができなかった。撮影所内をうつむいて歩き、髪結い部屋の片隅で、ひとり本を読みながら出番を待った。地味で無口。人付き合いも悪く、「女優らしくない女優」と陰口をたたかれもした。彼女は決して、初めからスターだったわけではないのだ。
映画界入りした翌年の36年、『生命の冠』(内田吐夢監督)に端役で出演。現在は北方領土とされている国後島を舞台にした作品で、極寒の地でカニの缶詰工場を営む兄弟の葛藤を主軸に、労働者である女工たちの苦悩も描かれる。原節子は兄弟の妹役だった。
ロケは実際に国後島で行われ、当時、実在した「碓氷製缶工場」を借りて撮影をした。そのため戦前の国後島の自然や街の風景を知ることもでき、そういった点でも、今日では貴重なフィルムとなっている。
原節子はロケ地の国後島には行かず、東京でのセット撮影のみだった、と語る映画研究者もいるが、ロケに協力した「碓氷製缶工場」店主の子孫にあたる碓氷ミナ子さんは、原節子も国後島にやってきたと伝え聞いているという。
本作品は長く存在を忘れられていたが、2011年にひょんなことから再発見された。きっかけはロシアのメドベージェフ前首相の北方領土訪問だった。日本政府はこれに強く反発して外交問題となったが、北方領土への関心がにわかに高まる中で「原節子が戦前に出演した幻の北方領土映画」として本作が発掘され、DVD化されたのである。大女優原節子が出演していなければ初公開から75年を経て、復刻販売されることもなかっただろう。
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『生命の冠』出演の翌年、原節子は大作『新しき土』(ファンク監督)の主役に大抜擢(ばってき)され、一躍スターとなる。これは世界的に著名なドイツ人のファンク監督が来日し、日本人俳優を起用し製作した日独合作映画で、出資者はナチスだった。日本軍部とナチスの主導で、日独防共協定を結ぶにあたって作られた、宣伝工作映画だったからだ。ファンクは無名の原節子を大抜擢した理由をこう語っている。「セツコならばドイツ人をも魅了できる」。原節子は映画公開時、ドイツに招かれナチスに歓待された。彼女がスターの階段を上る時、戦争もまた始まるのである。
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