ロシア地理的遺産プロジェクトの一環として、ニコライ・フヴォストフらが19世紀初頭に行ったサハリンとクリル諸島への遠征ルートをたどるツアーの一行が択捉島やサハリンを訪れ、映画制作のための資料収集を行った。企画したロシア地理学会リャザン支部長で極地探検家として知られるミハイル・マラホフ団長は「露米会社(※極東と北アメリカでの植民地経営と毛皮交易を目的とした帝政ロシアの国策会社)の経済活動エリアであったサハリンと択捉島という歴史的に重要な場所を訪問した。ロシアへのサハリンとクリル諸島の統合に貢献したレザノフとフヴォストフ、ダヴィドフの遠征に焦点を当てた映画を制作するための資料収集を行った」と語った。択捉島では1807年にフヴォストフらが上陸を果たしたドブロエ・ナチャロ湾(内保湾)を訪ねた。サハリン州政府を表敬訪問した一行を迎えたエピファノフ副首相は「ロシア国境の形成におけるサハリンとクリルの役割について伝えるためにすべきことはたくさんある。この愛国的なプロジェクトを実行できるようになることを願っている」と語り、サハリン地域の先駆的な英雄の歴史的記憶を保存する取り組みを称えた。(サハリン・インフォ2020/9/24)
※フヴォストフとダヴィドフは、幕府から通商を拒否されたロシア皇帝の使節レザノフの命を受けて1806年に樺太・久春古丹、1807年に択捉島の内保と紗那を次々と襲撃した人物。日本では文化露寇という。紗那に近い有萌には、戦闘の指揮をとり、自刃した戸田亦太夫の墓があった。現在、その墓がどうなっているのか確認できていない。
コメント