戦75年 領土の記憶(3)
ソ連軍の圧政
家を奪われ、科された強制労働
産経新聞2020.8.30
北方四島(択捉(えとろふ)島、国後(くなしり)島、色丹(しこたん)島、歯舞(はぼまい)群島)を次々と監視下に置いたソ連は昭和21(1946)年2月、自国憲法を適用して自国領に編入したと主張し、実効支配をさらに進めた。
北方四島には終戦時、計1万7291人(3124世帯)の島民が暮らしていた=注釈。多くは水産業で生計を立てており、昭和14~16年の3年間の平均水揚げ高は約5600万貫(21万トン)、当時の金額で約5200万円に上った。北海道全域の23%を占めていた。
ところが、ソ連占領後、島民の生活は一変した。
ソ連軍は昭和20(1945)年9月上旬に国後島に上陸した後、軍司令官が国後島はソ連の領土になったと宣言。そして、道路の夜間通行禁止や遠方への出航禁止、警察や村役場の廃止など、さまざまな取り決めを布告し、占領政策を進めた。
《北海道根室支庁(現根室振興局)の公文書『千島及●(=離のふるとりを取る)島(およびりとう)ソ連軍進駐状況綴(つづり)』には「今度日本ハ全部 ソ連人ニ転籍シテ ソビエートノ人民ニスルノダト 将校達ハ申シ居(い)レリ」とする島民からの報告書が参考として記載されている》
突然「家を明け渡せ」 奇妙な同居生活
ソ連軍上陸から2~3週間で日本人よりもソ連人の方が多いくらいになったとされる。ソ連人が増えるに従って、兵士やその家族、そして民間人が島民の自宅に住むようになった。
三上洋一さん
択捉島留別(るべつ)村に暮らしていた三上洋一さん(83)の一家は自宅をソ連軍に取り上げられた。そして占領した側と占領された側がひとつの屋根の下で暮らす奇妙な生活が始まった。
「突然、家を明け渡せといわれた。うちは8畳間が5つあったが、3部屋を3家族用に提供させられた。大叔父が経営していた旅館も明け渡した」。3家族の中に同い年の子供がおり、一緒に遊んだことを覚えている。
高橋節子さん
高橋節子さん(93)も住んでいた択捉島紗那(しゃな)村の自宅で、ソ連軍の隊長夫妻や警察官ら9人のソ連人と共同生活をしたという。「9部屋あったが、私たち家族は仏間と寝室とダイニングの3部屋を使い、あとはソ連人が使った。一緒に住んでいると情が移り、警察官は母のことを『ハジャイカ(女主人)』と呼んで慕っていました」と振り返った。
薪材の伐採、タラ漁、サケ・マス漁…過酷な強制労働
“同居”しながらも島民には缶詰工場や道路工事、製材工場などで強制労働が科せられ、「厳しく辛いことは体験者でなければわからないほど過酷なものであったといわれる」(北海道根室市役所総務部北方領土対策室領土対策係編『日本の領土 北方領土』)。
択捉島蘂取(しべとろ)村に住んでいた山本昭平さん(92)は終戦当時17歳。強制労働に駆り出された一人だ。
山本昭平さん
昭和20年12月から翌年3月ごろまで、ソ連軍の暖房用薪材の伐採と運搬を行った。ノルマは1日2立方メートルで、報酬は月300ルーブル。当時の1ルーブルは4円とされたが、実際は1ルーブル1円だったという。
3月ごろから6月末ごろまではタラ漁だった。ノルマは1メートル以上のタラを1人1日40本。タラ漁の次は12月までサケ、マス漁。それが終わると再び薪材の伐採に戻る。「監視の目はそれほど厳しくなく、ノルマの達成も自己申告だったが、疲労困憊(こんぱい)して体力的につらかった」と振り返る。
《『千島及●(=離のふるとりを取る)島ソ連軍進駐状況綴』には、強制労働に耐えながらもソ連軍から島を奪還することに期待する択捉島民の様子が記されている。
「働き得る者は総(すべ)てソ連軍の指示により 男子は主に漁業(鮭・鱒等の建網(たてあみ)漁業)及(および)林業関係 女子はソ連軍宿舎の掃除、洗濯等ソ連軍よりの強制的使役に服し種々圧制に苦(くるし)みてある」
「島民は択捉島はソ連の占領下に置かれあることを否定してゐる様(よう)であるが領土の確定未(いま)だなく 食糧事情等考慮し速かに領土の決定を見引揚下令の時期を一日千秋の思ひで待ちつつある状態にして 其(そ)の間ソ連軍の出役(しゅつやく)命には絶対服従し ソ連の島民に対する信用を落さぬ様腐心してゐる状況 寔(まこと)に切実なるものがある」》(編集委員 宮本雅史)
■今回の証言者
三上洋一さん 昭和12年4月、択捉島留別村生まれ。北海道大農学部卒。農学博士(東大)。日本専売公社(日本たばこ産業)で特許室長、(塩専売)海水総合研究所長などを歴任。現在、千島歯舞諸島居住者連盟「北方領土の語り部」に登録し、返還を訴えている。相模原市在住。
高橋節子さん 昭和2年1月、択捉島紗那村生まれ。実家は海藻店や缶詰工場などを経営していた。旧ソ連軍の侵攻後は両親と姉妹3人の計6人で両親の出身地・青森県大間町で暮らした。その後、単身上京し結婚。現在は東京都渋谷区在住。
山本昭平さん 昭和3年4月、択捉島蘂取村生まれ。22年10月に家族9人で秋田県の母の実兄宅に。20年7月15日、父と妹と3人で北海道・根室港に停泊中の船に乗っていたところ米軍の空襲を受け沈没、雑貨商を営んでいた父が犠牲になった。埼玉県行田市在住。
歯舞群島・水晶島の缶詰工場で働く従業員(千島歯舞諸島居住者連盟提供)
注釈 択捉島は択捉郡留別村と紗那郡紗那村、蘂取郡蘂取村の3郡3村からなる。国後島は国後郡泊村と留夜別村の1郡2村、色丹島が色丹郡色丹村の1郡1村で構成される。歯舞群島は現在、根室市に所属している。
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