子供時代をサハリンで過ごした秋田市在住の日本人女性がエッセイを出版し、友達になったロシアの女の子「ガーリャ」を捜している。inosmi.ruが「毎日新聞」の記事を翻訳した。(astv.ru 2020/8/24)
第二次世界大戦末期に旧ソビエト連邦軍が南樺太に侵攻してきた際の幼少期の体験を秋田市の佐藤紀子さん(82歳)が2019年、一冊の小冊子にまとめた。タイトルは「ガーリャに会いたい―少女の見た戦争」。ソ連軍による激しい攻撃や略奪がつづられる一方、ソ連の民間人との心温まる交流も記されている。人同士は国籍に関係なく友情を紡げるのに、なぜ戦争は起きるのか。そんな問いを小冊子は投げかけている。
佐藤さんは当時日本領だった南樺太の北部の町・敷香(しすか)(現在のロシア極東サハリン州ポロナイスク市)出身。10月初旬には雪が降り始め、冬には氷点下30度以下となって、まつげも凍るほど寒い町だった。
7歳だった1945年8月、ソ連が対日参戦し、同11日にソ連軍が南樺太の占領作戦を開始。父は出征中で、佐藤さんは母と共にソ連軍から逃れた。
終戦を既に迎えたはずの同22日、北海道への引き揚げ船が出る港町へ列車で向かった直後、出発したばかりの豊原駅(現ユジノサハリンスク駅)前の広場がソ連軍に爆撃され、多数の死者が出た。船には満員のため乗船がかなわなかった。先に出た引き揚げ船は、北海道留萌沖の海上でソ連軍の潜水艦に攻撃され、約1700人が死亡した。
日本人女性がソ連兵に性的暴行を受けるところにも出くわし、約1カ月後にソ連側の命令で敷香に戻されてからはソ連兵による略奪が繰り返された。
ソ連兵はただ恐ろしい存在だったが、ある日にロシア民謡の「カチューシャ」を歌う若い兵士の後ろ姿を目にした。その心に染み入る歌声は、今も耳の奥に残る。「遠い故郷や家族のことを思って歌っているかもしれない。ロシア兵も本当は私たちと同じ、普通の人なのだと思った」
やがて、労働者などとして樺太に来たソ連の民間人とも交流するように。互いの言葉を深く理解できない中、身ぶり手ぶりでコミュニケーションを取り、一緒に食事を取った。嫁との仲について愚痴をこぼすしゅうとめなどにも出会い、「日本人もロシア人も変わらないんだな」と思った。佐藤さんにもロシア人少女の友達ができ、その一人がガーリャだった。
ある日、2人で大切にしていたままごとの道具をロシア人の男の子に取られてしまった。ガーリャは自分のことのように怒り、「ごめんね」と言ったという。佐藤さんは9歳の頃に樺太から引き揚げることになった。このときは涙を流して2人で手を振り合い、ガーリャは貴重な菓子を分けてくれた。
元は優しい心を持った「普通の人」が多くの人を殺したり、略奪を繰り返したりする。「戦争は人を狂わせてしまう」。佐藤さんはそう思う。
戦時中、出征する家族を祝い事として皆が旗を振りながら見送る様子を、子供ながら「変だな。本当かな」と思っていたという佐藤さんは、「戦争を好きな人はいないはず。ただ『戦争は悲惨だ』『戦争は怖い』と語り合うのにとどめず、『どうして戦争は起き、繰り返されるのか』を一人一人が立ち止まって突き詰めて考え続けるのが大事」と語る。自身がつづった体験も、読者がその問いに向き合うきっかけになってほしいと願う。佐藤さんはガーリャとの再会を夢見て、今もロシア語を勉強しているという。
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