『私たちは旧島民に温かい気持ちを持っている。一緒に住んでいたとき、助けてもらったのだから』

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1992年ビザなし渡航第1陣(四島在住ロシア人19人)の新聞記事から

   1992年4月22日—27日まで、ビザなし交流(北方四島交流)の第1陣として初めて北海道を訪れた四島在住ロシア人19人。当時の新聞記事を読むと、新たな歴史の扉を開く出来事だったようです。

 ロシアの貨客船マリナ・ツべタエワ号が接岸した根室・花咲港には約500人の市民が出迎えました。根室高校のブラスバンド部員60人が「幸せの黄色いハンカチ」など7曲を演奏する中、旧知の新旧島民の中には抱き合って再会を喜ぶ姿もみられました。集まった報道陣も200人といわれ、市内のホテルは予約が取れなかったとあります。

 1992年といえば戦後47年。四島在住ロシア人の中には、ソ連軍による占領後に大陸から四島に移住し、日本人島民と暮らした記憶を大切にしていた人もいたようです。毎日新聞は、そんな新旧島民の思いを紹介しています。

 

毎日新聞1992年4月23日

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 「よく生きて…」。国境の海を越えてやって来たビザなし渡航第一陣が降り立ち、歓迎にわく岸壁。北方領土ソ連に占領されていてソ連人と日本人が混住していた当時、親交があった男性2人が44年半ぶりに再会し、元気な顔をほころばせながら固い握手を交わした。

 再会を果たしたのは、現在、色丹島で漁業コンビナート「オストロヴノイ」の船団長をしていて、訪問団に加わって来道したゲンナジー・ソコロフさん(56歳)と根室市光洋町のスーパー経営、晒(さらし)栄吉さん(59歳)。

 ソコロフさんは1946年に父母、兄の一家4人で北方領土志発島に移住した。当時11歳だったが、兄(故人)が、当時、晒さんの父・岩松さん(故人)を船の水先案内人などに雇っており、親しかった。昨年9月、北方領土を訪れた民間の平和団体「ピース・ボート」のツアー関係者が、偶然ソコロフさんと出会い「この人にぜひ会いたい。探して」と渡された岩松さんの写真から栄吉さんを探し当てた。 

 昭和23年秋、晒さん一家は、志発島から引き揚げた。当時14歳の栄吉さんの記憶にソコロフさんの名前はなかった。しかし、渡された写真が間違いなく岩松さんのものだったため、昨年11月、手紙と近況を送った。

 栄吉さんはソコロフさんが訪問団のメンバーに入っていることを事前に知って「まさかこんなに早く実現するとは」と再会を心待ちにしていた。栄吉さんは亡くなった岩松さんとうりふたつ。ソコロフさんは岸壁で栄吉さんと会った瞬間、思わず「イワマツ、よく生きて…」と呼びかけた。栄吉さんは「おっきい手だったなぁ、44年間の重みがこもっていたよ」と感慨無量の面持ち。

 栄吉さんは同夜、一行の止まっているホテルを訪れ、約1時間にわたってソコロフさんとビールを飲みながら歓談した。ソコロフさんは「4年前に88歳で亡くなった兄と岩松さんは、どこへ行くにも一緒で、よく島を巡回していた。素晴らしい友達だった」と話した。

 

毎日新聞1992年4月25日

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 「スムトチェンコは日本人の助産婦に取り上げられたんですよ」。北方領土からビザなしで札幌市を訪れているロシア人訪問団と旧島民との間で24日午後、懇談会が和やかな雰囲気で行われたが、団員の1人が別の団員をさしてこんな事実を披露すると、会場がどっとわいた。参加した旧島民は今回の交流を通して敗戦後のロシア人との混住の時代に改めて思いをはせていた。

 会が終わりに近づいたころ、新聞記者のガリーナ・クンチェンコさん(38歳)=択捉島=が「択捉の島民を代表して」と口を開き「私たちは旧島民に温かい気持ちを持っている。一緒に住んでいたとき、助けてもらったのだから」と話し始めた。ウラジミール・スムトチェンコさん(44歳)=同=のほか、ドーラ・チュフローヴァさん(49歳)=同=も日本人の外科医に手術を受けたことがあるという。

 ソ連軍の占領は1945年8月。46年から多くのロシア人が島に移り住み、日本人と約2年間、共に暮らした。テレシコ団長は「地元の新聞に日本人と一緒に暮らしていたときのことがよく載る。楽しく暮らしたいい思い出ばかり」と島民の気持ちを代弁した。

 懇談会で発言した札幌の伊藤ミツエさん(74歳)=国後島=は択捉に一家で移り、ロシア人の教師と同居した思い出を話した。「私の娘3人とロシア人の娘さんは毎日楽しく遊んでいました。きのうのことのようです」。

 

毎日新聞1992年4月25日

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 この日の懇談会の席上、南クリル地区長のニコライ・ポキージンさん(52歳)は「この写真の日本人軍医をぜひ探してほしい。国後島ユジノクリリスク(古釜布)のブードニコフという人からことづかったものだ」と求めた。これに対して、千島歯舞諸島居住者連盟は「写真を複写して、大勢の人に聞いてみたい」と約束した。

 一方、同じように、択捉島紗那から引き揚げた岩崎昭子さん(64歳)も、一枚の写真を一行に託し、同日夜開かれた交流会の席上で「捜してほしい」と要請した。岩崎さんが託したのは岩崎さんの家に間仕切りをして隣に住んだ夫婦で、ウヴォーリニカワ・マリー・ニカライさんと夫のセルシャン・マルチーコワ・ニカライさん。ウヴォーリニカワさんは国境警備隊の図書館長、セルシャンさんは映画技師をしていたという。

 岩崎さんは当時18歳。「もし見つかって連絡がとれたら、ビザなしで行くか迎えるかして、つもる話をたくさんしたい」と話していた。

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