8月28日 正午 ソ連軍が濃霧の択捉島留別に上陸した

北方領土ノート

北方四島上陸・占領作戦には艦船18隻、9,400人のソ連兵が参加した』…③

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 日本との戦争における米ソの極秘作戦「プロジェクト・ゼブラ」で、カタリナ型飛行艇の貸与とソ連兵の乗員訓練が行われた。写真は1944年、カタリナ型飛行艇を前に記念撮影を行う米ソの兵士たち                                                                 

 

8月28日 正午 ソ連軍が濃霧の択捉島留別に上陸                            

 北方四島への上陸・占領作戦は南樺太に侵攻したソ連太平洋艦隊支配下北太平洋艦隊が担っており、基地となった大泊(現コルサコフ)から5つの部隊が出撃している。

 北太平洋艦隊は8月23日に択捉島国後島に掃海艇2隻を派遣し、抵抗がなければ降伏を受け入れるよう上陸部隊に指令を出す。しかし、北方領土上陸作戦の基地として想定していた南樺太の大泊の占領に時間がかかり、現地部隊は動くことはできなかった。大泊の占領が完了したのは8月25日だった。

 8月26日午前9時20分(※時刻は日本時間。現地時間より2時間早い。以下同じ)、樺太から択捉島の飛行場を占領するため空挺部隊を乗せたカタリナ型飛行艇2機が飛び立った。アメリカ海軍から貸与された飛行艇だった。

 その1時間30分後の午前10時50分には、掃海艇T-589(113狙撃旅団第3大隊第1中隊176名)とT-590(112狙撃旅団第3大隊第2中隊166名)が択捉島国後島に向けて大泊を出港した。2隻が択捉島オホーツク海側に面した留別沖に到着したのは2日後の28日午前11時15分だった。

 掃海艇T-589はアメリカ海軍のYMS-237、T-590 はYMS-75で1942年に建造された。全長46m、全幅7.5m、270トン。米ソ共同の極秘作戦「プロジェクト・フラ」によって7月19日にソ連太平洋艦隊に移管されたばかりだった。

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               T-590(YMS-75)の同型船
 樺太の大泊から択捉島までは海路で約460kmである。15ノット(時速約28km)で航行できるT-589とT-590であれば、16時間ほどで着く距離だが、なぜまる2日もかかったのか。先発したカタリナ型飛行艇は、択捉島上空で千島特有の濃霧に見舞われ、飛行場を確認できなかった。1機は燃料切れで樺太に引き返し、他の1機はエンジントラブルで得撫島(ウルップ島)沖に不時着水した。

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 択捉島に向かっていた掃海艇T-589に、不時着水した飛行艇空挺部隊を救助するよう指令が入り、ウルップ島に向かったため時間を要したのだった。スラヴィンスキーの「千島占領–1945年夏」によると、不時着水した飛行艇には空挺部隊109人(自動小銃兵)が乗っていた。(※飛行艇の乗員は10名前後とされ、一度にそれほどの兵員を輸送できたのか疑問は残る) 掃海艇2隻のソ連兵と合わせると、択捉島の上陸部隊は440名前後と考えられる。

※「プロジェクト・ゼブラ( Project Zebra)」

日本との戦争における米ソの共同極秘作戦の1つ。1944年から1945年にかけて、アメリカのエリザベスシティ沿岸警備隊基地で、ソ連兵に対してカタリナ型飛行艇の操縦訓練を行った上で、飛行艇200機を貸与していた。

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 8月28日正午、択捉島の留別湾は濃い霧に覆われていた。掃海艇T-589の上陸部隊が搭載ボートで上陸した後、日本軍の艀を確保し、1個中隊170名が続いた。T-590は留別港内で上陸部隊の援護に回った。

 当時、択捉島の単冠湾に面した天寧には日本軍の89師団司令部が置かれ、島内に1万1,900人の兵隊が駐屯していた。8月25日に作戦任務は解除されていた。上陸したソ連軍は、1万人を超える兵隊がいることを知らなかった。

 上陸作戦は十分な準備なしに実行に移されたことは前にも書いたが、北方四島上陸・占領作戦でも、各島の詳細な地図を持っていなかったり、島内に日本兵がどれくらい駐屯しているかなど、肝心な情報を持たないまま部隊が派遣されていた。

 留別へ上陸した部隊は占領に手間取り、急遽、予定していなかったT-590の1個中隊も上陸させ、駐屯していた日本軍の武装解除にあたった。天寧の師団司令部から派遣された軍使がソ連軍将校を師団司令部に同道し、師団長と会見した後、29日に全軍の武装解除を完了した。

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   択捉島武装解除された日本兵(場所の説明はないが、天寧あたりか)

 

留別村長「留別は交通通信遮断さる」と至急電

 ソ連軍の択捉島上陸第一報は、紗那郵便局にあった無線電信で落石無線電信局に伝えらたが、文書などの記録は何も残っていない。北海道根室支庁の公文書である「千島離島ソ連軍進駐状況綴」(道立文書館所蔵)の中に、ソ連軍上陸を伝える電報や報告が残されている。

 それによると根室支庁への第一報は、8月29日午前1時30分に紗那村の西尾数一村長から届いた電報である。

「8月28日正午、ソ連軍艦2隻が留別に上陸した。別条の事なく、日本軍の参謀長と交渉の結果、天寧に軍使を派遣することになった。目下、どのような状況にあるのか、電信が不通のため詳細は分からない。ソ連軍艦はなお滞在中」

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 紗那の監視哨から根室警察署を経て、根室支庁に入った報告には「ソ連軍艦2隻が択捉郡留別村留別に上陸し、役場吏員、郵便局員を留別国民学校に収容した」と状況を伝えてきた。

 ソ連軍上陸した留別村の沢田昇之助村長からの8月30日の電報には、「留別は交通も通信も遮断された。〈留別村長〉宛の緊急用件は〈天寧の郵便局気付〉で発信してほしい」とあり、電報を受け取った当時の根室支庁職員が書いたメモ書きに「留別村長は28日午後9時出帆 第一美登丸29日午後2時天寧に上陸」とあることから、沢田村長はソ連が上陸したその夜、留別を離れ、太平洋側の天寧に船で移動したことがうかがえる。

 沢田村長からの同日午後2時に届いた電報には「居住者の生命財産は保障され、絶対安全に付き、支庁その他の関係筋に連絡頼む。通信はすべて天寧局気付に出せ。現地にて最後の活躍す」と島内の状況と合わせて、村長としての自らの覚悟を伝えている。

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