北方領土ノート
『北方四島上陸・占領作戦 艦船18隻、9,400人のソ連兵が参加した』…①
ソ連はなぜ千島列島への上陸・占領作戦を急いだのか
ソ連軍は1945年8月9日未明、当時はまだ有効だった中立条約を破って宣戦布告、満州に侵攻した。11日には南樺太の占領作戦を開始した。
日本は広島、長崎への原爆投下に続き、ソ連軍の侵攻が決定的となり、14日に日本はポツダム宣言受諾の意思を表明した。15日に天皇の玉音放送がラジオを通じて流れ、北方領土の島々でも島民たちが学校に集まり、雑音をかき分けながら言葉に耳を傾けた。
しかし、その後もソ連軍の侵攻は止まらない。8月18日にはカムチャッカ半島のカムチャッカ防衛区軍とペトロパブロフスク海軍基地から進軍してきた第二極東軍が千島列島北端の占守島への上陸作戦を開始した。
占守島、幌筵島の日本軍2万3,000人に対して、ソ連の上陸部隊は8,800人にすぎなかった。にもかかわらずソ連が千島上陸作戦を急いだのはなぜか。
日本が降伏の意思を表明した8月14日時点で、米英ソ三国首脳がヤルタで約束した南樺太も千島列島も手に入れていなかった。さらに、アメリカ軍が千島列島占領に踏み切るのではないかと危惧していたことが挙げられる。
ヤルタ会談の前、ソ連の対日参戦に向けた協議の中で、アメリカはソ連への物資輸送ルートの安全を確保するため、千島列島の一部の島を奪取することを検討していたことは前にもふれた。アメリカ艦隊のキング司令官は1945年5月と、作戦の時期にまで言及していた。
この計画は実現しなかったが、ソ連が対日参戦した後の8月12日、アメリカの艦船が千島列島北部の松輪島、幌筵島に艦砲射撃を行った。ソ連はアメリカ海軍が千島列島に部隊を上陸させる準備をしているのではないかと疑念を抱いた。
8月15日、トルーマンから日本軍が降伏すべき相手国を定めた連合国の一般命令第一号の案がスターリンに届く。その中でトルーマンはソ連に降伏する地域からわざと千島列島を外していたこともあり、ソ連はさらに疑心暗鬼を募らせた。
対ソ宥和路線をとったルーズベルトとは正反対に、トルーマンはソ連の締め出し、排除路線に舵を切った。
そのことを感じ取っていたスターリンは、準備不足は承知の上で、ヤルタで約束された権利を行使するための、前提となる南樺太や千島列島の上陸占領作戦を急いだ。
占守島では、両軍合わせて1,500人ともいわれる戦死者を出す激しい戦闘が繰り広げられた。23日に占守島を占領したソ連軍は、島伝いに南下を続け、8月31日までにウルップ島の占領を完了した。
産経新聞(2015年8月13日)より
※参考
TBS番組「報道の日2019」(2019年12月30日放送)より
1945年7月末、訓練中の上陸用舟艇をカムチャツカに移動。一方、アメリカは8月6日広島、9日長崎に原子爆弾を投下。8月15日、日本の敗戦が決まります。にもかかわらず2日後、ソ連は52隻の船団を千島列島最北端の島、占守島に向かわせます。作戦の要である上陸用舟艇は16隻。そのすべてが「プロジェクト・フラ」によりアメリカから貸し出されたものでした。(中略) 多くの船が接岸できず、泳いで上陸したというソ連軍。作戦を早めたための訓練不足が一因でした。わずか数時間で上陸用舟艇16隻のうち5隻を失いました。日本兵の死傷者およそ600人、ソ連兵は5倍のおよそ3,000人。終戦後の激戦は仕掛けた方のソ連が大きな代償を払うことになりました。
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