北方領土ノート
『太平洋戦争の勃発からヤルタ会談まで』…②
択捉島の単冠湾に機動部隊が集結
北方領土最大の島である択捉島の中央に位置する単冠湾は、太平洋に向かって大きく口を開けている。冬でも流氷が接岸しない湾の北側に年萌、その対岸に天寧があり、2つの集落を合わせても70戸ほどの静かな漁村だった。
1941年(昭和16年)11月下旬、本土から空母や戦艦、駆逐艦が続々と集まってきた。島民はその大きさと数の多さに驚いた。いったい何隻あるのか。空母が2隻、戦艦が2隻…10数隻の軍艦まで数えたところで、海上に煙幕が張られて見えなくなった。
島にはランプの灯りしかなかった。島民たちは、いつもは漆黒の闇に包まれる湾内から、サーチライトの青白い光が空に向かって幾筋も交差するのを見た。まるで不夜城だった。
軍の命令で箝口令が敷かれ、天寧郵便局はしばらくの間、通信を遮断された。根室と連絡をとり、長い冬を越すために必要な物資を手配することもできなかった。
島民たちはただならぬ気配を感じたものの、何の目的でこれだけの艦隊が、こんな辺鄙な場所に集結したのか、知る由もなかった。
11月26日早朝、艦隊は一隻残らず単冠湾から姿を消していた。
日本がハワイの真珠湾を攻撃し米英に宣戦布告したのは、それから12日後だった。島民たちは、日米開戦のニュースを聞いて、奇襲をかけたのは単冠湾に集結していた艦隊だったと初めて知った。
単冠湾が艦隊の集結地点に選ばれたのは、湾の入り口が10㎞もあり、大艦隊の出入港、停泊に適していたことや居住人口が少なく、情報管理がしやすかったこと。そして北太平洋を通る大圏航路に位置し、燃料の節約や隠密行動をとるうえでも好都合だったことがある。
日本の機動部隊が真珠湾を急襲した翌日、アメリカのルーズベルト大統領は駐米ソ連大使に対日参戦を要請した。それ以降、アメリカはソ連に対し、執拗に日本との戦争に参加するよう呼びかける。
太平洋戦争開戦から4年後、ソ連は対日参戦し、アメリカから貸与された艦船を使用して北方領土に上陸し、占領することになる。
コメント