❐北方四島の話題
kurilnews.ru/2019/10/22
「国境にて」の編集長であるキセイリョフ氏が国後島の博物館を創設したフョードル・ピジャノフ氏にまつわる興味深いエピソードを紹介している。
●…1980年代後半に「領土問題」(※北方領土問題)に関するプロパガンダが強化され、一部のロシアの政治家が主導して、クリル諸島の一部を日本に引き渡そうとする動きが始まった。フョードル・ピジャノフは当時のロシアの指導者たちの、このような秘密の決定に対する猛烈な反対者だった。
●…1990年(※正しくは1991年)には、ロシアの外務次官クナーゼ氏が率いるグループがクリル諸島に到着した。彼は連邦議会の複数の議員を伴って色丹島、択捉島、国後島を訪問した。
●…彼らは国後島のクリル行政府のバルコニーに立って、集まった住民に対して、クリル諸島を日本に引き渡すことに同意するよう促した。領土を移転した後、クリルの人々は幸福と平和を見出すだろう、と呼びかけた。
●…行政府前の中央広場には2,500人の住民が集まっていたが、フョードル・ピジャノフだけがモスクワから来たアジテーターに抵抗した。彼は、ビジョンを明確に示し、我々の島を守った。
(補足)
●…クナーゼ外務次官の提案は、日ソ共同宣言で「平和条約締結後に引き渡す」としている色丹、歯舞について、条約締結に先立って引き渡し方法について合意しておく、というものだった。①色丹、歯舞の引き渡し方法に合意②平和条約締結③色丹、歯舞の引き渡し④日露両国で環境が整えば残る国後、択捉について協議する–。
●…1992年3月、ロシアのコズイレフ外相と渡辺美智雄外相の会談が行われた際に非公式の場で、クナーゼ外務次官が提案したが、日本側は「受け入れられない」と回答したという。
●…2013年3月29日の産経新聞電子版にクナーゼ氏のインタビュー記事が掲載されている。
-非公式提案の狙いは
「領土を引き渡すという場合、その時期や不動産の所有権、島からの移住を希望する住民のことなど、膨大な技術的問題が伴う。色丹と歯舞の引き渡しを発表すれば、日露双方に大きな抗議が起き、そうした具体論での合意が困難になるだろう。平和条約締結前の協議により、そうした事態を避けるのが目的だった」
-日ソ共同宣言が基本か
「私は1991年の秋に択捉、色丹、国後各島を訪れ、住民に『ロシアの利益は守る。だが、利益の1つは国際的責務を果たすことであり、日ソ共同宣言の履行もそうだ』と説明した。『手続きに関する大変な仕事があり、すぐに島が日本になるわけではない』とも説明した。平和条約の締結前に色丹、歯舞を引き渡すと言うなどあり得ない」
-国後、択捉両島は
「2島の引き渡し後、環境が整った場合に協議することを提案した。『環境』として必要なのは、日露の世論が平和条約締結や2島引き渡しに納得し、それが両国の信頼関係強化につながったと認識することなどだ。色丹、歯舞に続いて国後、択捉を引き渡すといった約束はしていない」
-日本側の反応は
「話を聞いた渡辺氏は少し黙り、同席していた斉藤邦彦外務審議官(当時)を見やった上で、受け入れられないと答えた。四島全てを求めるというのが日本の立場だったからだろう。渡辺氏が92年8月に訪露した際、もう非公式提案への言及はなかった。日本政府がこの提案を議論し、受け入れてくれることを期待していたので残念だった」
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