北方領土遺産 『クリル探検。ネガと文書…1946年』…①

北方領土遺産 『クリル探検。ネガと文書…1946年』

 『忘れられた探検』(ロシースカヤ・ガゼータ 2015/9/15付より)

 ●…1946年5月24日。ウラジオストクゴールデンホーン湾。ソ連科学アカデミーとアムール地域研究協会の経済学者、生物学者、地理学者、地質学者、民族学者からなる遠征隊は、汽船スヴェルドロフスクの甲板にいた。あと数分で、もやいが解かれ船は神秘の島クリル諸島へと向かうところだった。

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写真説明  1946年5月24日。ウラジオストクから出発前の遠征メンバー。左から R.オストロモフ(コレクター)、N. コナコフ(植物学者)、D.ボロビヨフ(遠征隊長)、V. アルチュシェンコ(火山学者)、ゴルシコフ(経済地理学者)、E. テレシェンコフ(地形学)、V. リマレフ、随行者詳細不明。

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写真説明 色丹島で。遠征隊の乗ってきた汽船スヴェルドロフスク(1946年6月6日)
 

 ●…クリル遠征隊の使命は、島々の火山や温泉を調査し、岩石や植物のサンプルを集め、地図を作成するためのデータを収集してレポートにまとめ、クリル諸島の将来の開発に向けた予測を行うことだった。遠征隊に選抜された11人は、ほぼ4カ月にわたる科学的調査の旅に出るところだった。

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写真説明 遠征のルート:色丹 – 国後島 – 得撫島 – 択捉島 – パラムシル(地図上の点線)。期間:1946年5月24日から10月2日まで。

 

●…一体誰の判断だったのか分からないが、遠征隊には1人のプロの写真家が加わっていた。それにしても、それは賢明な判断だったというほかはない。汽船スヴェルドロフスク出発前に、遠征隊の記念写真を撮った人、それがイワン・クワチだった。彼はこの記念写真を皮切りにクリルの島々で2000枚近い、貴重な写真を残すことになる。

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写真説明 ロシア人写真家イワン・クワチ

 

●…クワチはもともと農業技術者だった。戦前、写真に興味を持つようになり、いつしか従軍カメラマンとして仕事をするようになる。ナチスドイツとの戦いの中でケーニヒスベルク爆撃に従軍し、戦争カメラマンとしての最後は1945年8月の対日戦争、場所は満州だった。

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写真説明 クリル諸島でイワン・クワチは夜明けから日が暮れるまでカメラを離さない。

 

 ●…クリル諸島遠征中、旅慣れた写真家クワチは夜が明けてから日が暮れるまで学者たちの調査に同行し写真を撮り続けた。そして、調査の合間や休憩の時間に、島の日常の暮らしにレンズを向けた。彼が撮った写真のうち20枚は、遠征終了後に学者たちがまとめたレポートに掲載されたが、残りの2,000枚に及ぶ写真は時の経過とともに埋もれてしまった。

●…65年後。クワチの写真はアムール地方調査会(ロシア地理学会)の古文書館の埃まみれの棚の中から、マリーナ・グリジャエワ女史によって発見された。サハリン州古文書局の主任顧問で歴史家のグリジャエワ女史は2010年に、ウラジオストクのアムール地方調査会の古文書を調べていた。たまたま手にした古い箱には「クリル探検。ネガと文書…1946年」と書かれていた。彼女は自分が見ているものを信じられなかった。箱の中には、和紙で丁寧に包まれた70本以上のネガフィルムが収められていた。クリル諸島で撮影したものが53本(1,883枚)、サハリンで撮影したものが約20本。8本はフィルム同士がくっついた状態で何が写っているのか分からない状態だった。クワチがクリルで撮影した1,883枚は完全な状態で保存されていた。それは灰の中から湧いてきたかのようだった。歴史家の人生の中で、おそらく訪れる数少ない大発見の瞬間だった。

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写真説明 クワチの写真を発見したマリーナ・グリジャエワ女史

 

●…しかし、それは始まりにすぎなかった。グリジャエワ女史と仲間たちはクワチが残したクリルの写真から233枚を選び写真集を作った。写真集は2015年9月、サハリンで開催された国際学術会議「第二次世界大戦の教訓と現代」で発表され、科学的偉業と称賛を浴びた。
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    写真説明 『千の島を巡る 1946年のクリル探検』

 

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写真説明 色丹島・斜古丹の子供たち(1946年6月12日) 

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写真説明 択捉島。地質学者ワシーリー・アルチュシェンコが美しい洞窟を調査

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写真説明 択捉島小田萌山の硫黄鉱山への道。チリップ山が遠くに見える(1946年8月10日)

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写真説明 択捉島単冠湾でボートに乗る遠征隊(1946年9月21日)

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写真説明 1946年9月3日、択捉島で。帝国主義日本に対する勝利の記念日に開かれたコンサート

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写真説明 色丹島で生まれた最初のロシア人男性ヴイーチャ・オデインツォフ(1946年6月12日)

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写真説明 択捉島にて。対日戦勝を記念して開かれたサッカー試合で挨拶する守備隊と飛行士チーム(1946年9月3日)

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写真説明 色丹島・斜古丹の墓地。クリルアイヌの墓に建つ十字架は大部分が朽ちている。右側は日本人の墓(1946年6月12日)

※経済地理学者テレションコフの報告

色丹島に関して、次の点は非常に重要である。日本人は以前、ロシアの国籍を持ち、ロシア語を話していた正教徒のアイヌ人を千島北部からこの島に移住させた。現時点では色丹島に千島アイヌ人は住んでいないが、正教会の宝物及び聖書、イコン(アレクサンドル・ネフスキーのイコンを含めて)が発見された。小さな墓地では他の日本の墓地では見かけない十字架を35本発見した。年配の日本人は、それは千島アイヌの墓だと主張していた。つまり、全てのアイヌ色丹島で彼らのために作られた生活状況において、滅亡した……」(テレションコフの「1946年6月8日~7月8日に色丹島及び国後島で行われた地理学会の探検中に施した経済地理学に関わる仕事の報告書」より(1946年7月10日付け)

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写真説明 択捉島・留別川河口付近の砂丘。波のような模様は風のせいで現れる。砂丘に足跡が残っている(1946年8月16日)

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写真説明 色丹島に最初に移住したロシア人家族(1946年6月12日)

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写真説明 イワン・クワチのレンズが約70年前にとらえた、すばらしい風景。

今日では息をのむようだ

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写真説明 撮影ノートの走り書きから、探検の息づかいが聞こえる

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写真説明 イワン・クワチのフィールド・ノートには、フィルムのフレームナンバーと被写体についての記述がある

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写真説明 クリルを探検した写真家イワン・クワチがフィールド・ワークで残した詳細な報告

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