〇…スターリンが対日参戦の条件として、初めて南樺太と千島列島を要求したのは1944年12月14日である。それより前、1943年10月の段階でルーズベルトは南樺太と千島列島はソ連に引き渡されるべきとの考えを示し、1943年10月19日~30日に開催されたモスクワ外相会談でソ連に提案している。
〇…一般的に1945年2月のヤルタ会談で、スターリンが対日参戦の見返りに南樺太と千島列島の領有を認めさせたという印象があるが、南樺太と千島列島のソ連への引き渡しは、スターリンの領土的野心を見透かして、対日参戦の取引材料としてルーズベルト大統領の方から提案していたとみることも出来る。
日ソ中立条約の交渉過程でソ連は南樺太と千島列島を要求していた
〇…1940年10月30日 建川美次・駐ソ大使→モロトフ・ソ連外相
建川大使は、それまでソ連と協議してきた中立条約を引込め、より拘束力が強い不可侵条約を提案した。「中立条約では不侵略の問題がはっきり表現されないから」(スラヴィンスキー著「日ソ中立条約」)
〇…1940年11月18日 モロトフ・ソ連外相→建川美次・駐ソ大使
モロトフ外相は「もし不可侵条約の締結がロシアが極東でこうむった領土の喪失、すなわち失われた南サハリンとクリル列島の回復を伴わなければ、ソ連邦の世論は条約の締結を好意的に迎えないだろう。日本がこれらの問題を検討する用意がないとすれば、ソ連は不可侵条約の代わりに中立条約を締結するこことする」と回答した。(スラヴィンスキー著「日ソ中立条約」)
ルーズベルト大統領はソ連が千島列島を欲していることを察知した
ガリッキオ博士(アメリカ・ピラノバ大学・日米政治外交史)は「アメリカは1940年に行われた日ソ不可侵条約の交渉内容を暗号解読によって把握していた。その時、ソ連側は日本に対して条約締結の見返りに、千島列島の譲渡を要求していた。この事実から、ルーズベルトはソ連が千島列島の入手に大きな関心を寄せていることを掴んだ」と証言している。(NHK「これがソ連の対日外交だ 秘録・北方領土交渉」)
〇…1941年12月8日
アメリカのルーズベルト大統領とハル国務長官がソ連のマキシム・リトヴィーノフ駐米大使に対して、対日参戦を要請した。(長谷川毅著「暗闘 スターリン トルーマンと日本降伏」)
ルーズベルト大統領「千島はソ連に引き渡されるべきである」と方針を表明した
〇…1943年10月5日
ルーズベルト大統領はハル国務長官ら国務省高官をホワイトハウスに招集し、2週間後にモスクワで開かれる米英ソ3国外相会談に向けて協議。その中で、スタッフの誰もが予想さえしなかった一つの戦後処理案を提起した。アメリカ国立公文書館にファイルされた会議録には「千島列島はロシアに引き渡されるべきである」と記されている。北方領土問題はこの時、ルーズベルトによって議題にのせられ、初めてアメリカの意思として文面に残された。当時、太平洋戦争終結までに2年以上を要し、日本本土での戦闘になればアメリカ軍は100万人を超える犠牲を出すだろうと予測されていた。ルーズベルトは戦争の早期終結のためにはソ連の参戦が不可欠と結論した。そのための取引材料が「千島列島をロシアに引き渡す」という提案だった。(NHK「これがソ連の対日外交だ 秘録・北方領土交渉」)
ハル国務長官は南樺太と千島をソ連領とする見返りに対日参戦を要求した
〇…モスクワ外相会談1943年10月19日~30日
外相会談でのハルの最大の使命はスターリンから対日参戦の約束を取りつけることであった。しかし、「千島列島を引き渡す」という条件にもかかわらず、ソ連の態度は予想外に硬く、返答は留保されたまま最終日の会談を終えた。(NHK「これがソ連の対日外交だ 秘録・北方領土交渉」)
スターリンはハルに「ソ連は対日戦に参加することを決定した」と耳打ちした
〇…1943年10月30日
三国外相会談最終日の晩さん会でスターリンがハル国務長官に『ソ連政府はアメリカ政府の要望を検討した結果、ヒトラーとの戦争に勝利をおさめた後、対日戦に参加することを決定した』と語った。(スターリンの通訳を務めた外交官ベレシコフの証言)
ハル国務長官は、スターリンが『同盟国がドイツを敗北させた後に、ソ連は日本を敗北させるため対日戦争に参加することを明確に、いかなるためらいもなく約束した』と書いている(長谷川毅著「暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏」)
〇…1943年11月28日~12月1日
テヘランでの米英ソ3国首脳会議で、スターリンはドイツ敗戦の後に対日戦争に参加することをはっきりと約束し、そのためにいかなる「要望」を提出するかは、後で明らかにすると言明した。(長谷川毅著「暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏」)
スターリンは、まずモスクワ会談の際に密かにハル国務長官に対して、またその一ヶ月後のテヘラン会談では、ルーズベルトとチャーチルに対して、ドイツの敗北後に対日参戦を行う意図があることを打ち明けた。しかし、注目すべきことに、ここではあくまで相手方に問われる形で参戦の用意があることを表明したのであって、ソ連側から積極的に申し出たわけではなかった。当然、スターリンは具体的な要求や目標を何一つ示さなかったのである。(横手慎一著「第二次大戦期のソ連の対日政策1941-1944」)
日本はソ連の対日参戦を回避するため南樺太と北千島の譲渡方針を決定
〇…1944年9月15日 対ソ和平工作
日本は最高戦争指導者会議で、ソ連に対する和平工作として「対ソ施策ニ関スル帝国ノ対ソ譲歩ノ限度腹案」を策定。ソ連の対日参戦を回避するため、南樺太、北千島を差し出す方針を決定した。
〇…1944年10月14日
ルーズベルトがハリマン駐ソ大使を通じて、スターリンに対して対日参戦を提案した。(スコット・スチュアート「ルーズベルト秘録(上)」)
スターリンは対日参戦のために必要な軍需物資や食糧を要求した
〇…1944年10月14日
スターリンは対日参戦のための「政治的観点が考慮されなければならない」と述べ、アメリカから何らかの見返りがなければならないことをほのめかした。スターリンはアメリカ軍にカムチャッカの航空基地と海軍基地を利用させることで同意したが、その見返りとして「二カ月から三カ月分の備蓄に十分な食糧と航空機・自動車の輸送用の重油」と「鉄道のレールと他の輸送手段」を提供してほしいと要求した。(長谷川毅著「暗闘 スターリン トルーマンと日本降伏」)
国務省が「南部千島(北方四島)は日本によって保持されるべき」と報告
〇…1944年12月6日
アメリカ国務省領土調査課がヤルタ会談を前に、ソ連との交渉を念頭に、千島列島に関する報告書をまとめた。クラーク大学の日本研究の第一人者であるブレイクスリー教授に調査を委託。報告書は次のように勧告している。
「①南部千島は、日本によって保持されるべきである②北部及び中部千島は国際機構のもとに置き、ソ連を管理国とする③いずれの場合も、北方水域における日本の漁業権保持については配慮する。千島列島南部の諸島に対するソ連の権利を正当化する要因は、ほとんどない。歴史的にも民族的にも日本のものであり、漁業的価値のある海域をソ連に譲渡することは、将来の日本が受入れ難い事態をつくり出すことになる」(ブレイクスリー報告書)この報告書がルーズベルトの目に留まることはなかった。
〇…1944年12 月14 日
スターリンとハリマン大使との間で会談がもたれ、ヤルタ秘密協定につながるソ連の対日参戦に関する政治的条件について意見交換がなされた。そして同席で初めてスターリンから、南樺太と千島列島など、日露戦争で失った領域の回復が要求され、ハリマン大使から直ちにローズヴェルト大統領へ報告された。(花田智之「ソ連の対日参戦における国家防衛委員会の役割」)
ルーズベルト『ロシアの対日参戦という大きな利益に比べれば、千島は小さな問題だ』
〇…1945年2月4日~11日 ヤルタ会談
「千島列島は日露戦争よりはるか前、1875年の日露間の平和な協定によって日本領土と定められたゆえ、ルーズベルトに対して、千島譲渡に関しては再考するよう促した。しかし、ルーズベルトは『ロシアが対日参戦の助っ人になってくれるという大きな利益に比べれば、千島は小さな問題だ』との認識で、この進言を退けた」(アメリカのハリマン駐ソ大使の回想録)
コメント