1947年択捉島・紗那 住宅やホテル8棟焼失 日本人島民への不信感高まる
1947年(昭和22年) 1月30日深夜、北方領土・択捉島クリリスク(紗那)で大火災が発生し、内務省と国家保安省の地区部局に属する家屋5棟、ホテル1棟、日本人住宅2棟が焼失した。
これは破壊行為とみなされた。原因を調査する委員会は、国境警備隊の防諜将校ヴラドコが率いた。残念ながら、犯人は特定されなかったが、疑いは残った。
発生した災害により、指導部は地区の消防事業の組織化を開始せざるを得なくなった。島はこれまで魚工場に消防組織があるだけで、無秩序な生活を送っていたことが判明した。明らかに消防設備が足りなかった。手押しポンプが数台しかなく、斧やトビ口(消火活動に使う棒の先に金属が付いた用具)がまったくなかった。クリリスクの境界内には消火用貯水池などなかった。消防隊も一つもなかった。
同年2月28日、地区の中心部に最初の消防隊が結成され、通訳から消防長に異動したセルゲイ・コルチュリンが隊長を務めた。消防士は11人で、全員が日本人だった。
しかし、この大火災は、クリリスクに住むロシア人に、日本人住民への大きな不信感を抱かせた。4月初旬、地方民政局は2日以内に日本人警備員を全員ロシア人に交代させ、可能であれば消防士も交代させるよう要求した。そして、今後これらの職に日本人を雇うことを禁じた。
アナトリー・サモリュクさんの『私たちは普通の日本人と一緒に始めました! (クリル諸島1945 – 1950)』から。