『日ソ混住時代の北方領土』事件・事故ファイル➂

北方領土遺産
戦前の択捉島・内保

「日本人の老人は、キュウリを盗んだロシア人の子供を絞殺した」

ソ連占領後、日本人とソ連人が混住していた時代の北方領土・択捉島の出来事をつづった本『私たちは普通の日本人と一緒に始めました! (クリル諸島1945 – 1950)』(アナトリー・サモリュク著)の中には、とても信じられないような出来事が紹介されている。

場所は島の南部オホーツク海側にある内保。日本人の老人が畑のキュウリを勝手にもぎ取っていったロシアの少年を絞殺したという。当時、内保に住んでいたロシア人女性が著者のインタビューで語ったものだという。その女性は「当時はロシア国民が絞殺されているのが発見されることがよくあった」などとも語っている。ロシア人(ソ連兵)に日本人島民が殺害された事件はいくつもあるが、その反対は聞いたことがないし、常識的にあり得ないだろろう。

私は以前、択捉島在住のロシア人の老人の家族と夕食を共にした。戦後、択捉島南部で日本人と「混住」していた時のことについての会話の中で、クリル諸島を解放し、その後、島を発展させた前線兵士の未亡人、イライダ・ペトロヴナ・マハンコワさんに、入植地のドブロエ村(注:内保)ではどのように暮らしていたのかと尋ねた。かつての敵(注:日本人)とはうまくやっていたのか?
それに対して彼女は控えめに答えた。
「日本人のことを覚えている意味なんてないわ! 知らないでしょう! 最初は彼らとの関係は非常に困難でした。日本人はロシア人を殺した。最初は大人、そして子供まで殺した。ある時、ロシア人の母親が10歳くらいの息子を連れて私たちの居住地の通りを歩いていた。そして日本人の老人の住む家の前を通り過ぎた。彼の畑には既にキュウリが育っていた。そこで少年は畑に入り込みキュウリをもぎ取った。日本人の老人は窓からその様子を見ていた。翌日、この悪戯っ子は丘の上で絞殺されているのが発見された。キュウリのせいでどうして手を上げることができたのか!当時はロシア国民が絞殺されているのが発見されることがよくあった。日本人は枕や縄を使ってこれを行なった。彼らは我々を占領者とみなし、ロシア人が千島列島に住むことを望まなかった。

そうかと思えば、こんな記述もある。択捉島のレイドヴォ(別飛)に「黒人日本人」のパルチザンが潜んでいて、夜な夜なナイフでソ連軍を襲ったという話だ。その話をしたロシア人男性は父親から聞いたという。

レイドヴォに住んでいたとき、父は「黒人日本人」について教えてくれました。「黒人日本人」は、1950 年までレイドヴォでパルチザンだったと言われています。「黒人日本人」は、クラツコエ (村の下部) 近くの洞窟に武器を持って隠れていました。夜になると出撃し、ナイフで軍を襲いました。その後、国境警備隊が「黒人日本人」を捕まえ、武器と食料がたくさんあった洞窟を爆破しました。(ウラジミール・エゴローヴィチ・ペシェホノフの話)

真偽不明、荒唐無稽な話があたかも真実として島の人々に語り継がれていくとしたら、そら恐ろしいことだ。ビザなし交流(北方四島交流)が始まって間もない頃、北海道新聞の「卓上四季」がこんなことを書いていた。

「日本人は血に飢えたサムライだ。島に乗り込んで来て、みんなの首をはね、力ずくで私たちの領土を奪おうとしている」▼ロシア人は、ビザなし交流が始まるまで日本人を、こんなふうな目で見ていた。このほど択捉島で会ったスベトロフ・クリール地区長に聞かされた。「島は私たちのものだと教えられてきた」(地区長)ロシア人。偏った教育は恐ろしい▼長く往来が途絶え、情報不足が誤解を生んだ。(1995/7/28)

ビザなし交流が始まる前までロシア人島民が抱いていた「血に飢えたサムライ」「首をはねる」という日本人のイメージは、案外キュウリを黙ってもぎ取った少年を殺害した日本の老人の話や夜な夜なソ連軍を襲撃した「黒人日本人」のパルチザンの話のような、荒唐無稽な話から来ているのかもしれない。

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