サハリン・コルサコフ市(旧大泊)オクルジュナヤ通りの幼稚園敷地内で行われていた擁壁工事で、北朝鮮からの出稼ぎ労働者が日本の漢字が刻まれた小さな石碑や食器を発見した。サハリンの考古学者(マリア・サフォノワ氏)によると、石碑には「寶蔵一宇並敷石分岐通路/建立功徳主木原豊次郎/昭和六年七月吉辰/現■(住 –?)俊丈代」と彫られていた。食器は作業員が持ち去ったという。

この場所には樺太時代に日本人が建てた曹洞宗に寺院、楠渓寺があった。伽藍と参道の建設費用は、篤志家である木原豊次郎氏によって寄進され、石碑はこれを記念して、昭和6年(1931年)7月の吉日に記念碑が建立された。揮毫は住職の俊丈氏の筆になる。
木原豊次郎(木原豊治郎)(1890年-1974年)は、愛知県出身で「日本の山林王」と呼ばれ、サハリンでは1934年に当時の大泊に「株式会社木原商店」を設立。1941年には6,000円を投資して製材所を建設した。

コルサコフのバスターミナル付近の一画は、古参の人々には宗教建築物があったことで知られている。近隣には少なくとも3つの日本の寺院があったが、後に破壊された。寺院の一つがあった場所には、後に木造平屋建てのロシア正教会が建ち、崩れかけた建物は最近ようやく取り壊された。日本の寺院の柱の残骸は今も茂みの中に残っている。2つ目の寺院があった場所には、長い間ソ連兵舎があった。そして1992年2月、3番目の寺院があった場所に幼稚園「黄金の鶏小屋」が開園した。これらの日本の遺物は古地図にも記されている。


現場は幼稚園「黄金の鶏小屋」に隣接する改修工事は、建設会社「ストロイマーケット」によって行われた。工事は2023年11月に開始され、当時、土塁の補強と裏庭への土砂崩れ防止を目的とした擁壁の交換が計画されていた。工事は2023年12月中旬に完了する予定だったが、何らかの理由で、建設作業員は今日まで作業を続けている。
マリア・サフォノワ氏のコメント
このエリア自体と発見された遺物は、どちらも観光の潜在性を秘めている。石碑が発見された場所に関連する未確認遺物(おそらく、石碑、仏塔、その他の儀式用建造物の基礎に安置された仏舎利に関連するもの)は、法律上ロシア国家の所有物であるにもかかわらず、作業員である北朝鮮人の手に渡り、サハリン住民がこれらの遺物を見ることはほとんど不可能なのは残念なことです。
また、石碑の発見後、サハリンの博物館(コルサコフ博物館、州郷土史博物館、勝利博物館)の代表者たちは、発掘された石碑に関する情報が最初に掲載されたTelegramグループのメンバーであるにもかかわらず、何らかの理由でその運命に興味を示さなかったことも注目に値します。
同時に、この発見はコルサコフの住民や同市を訪れる人々に、慣れ親しんだ場所を新たな視点で見つめ直させ、長らく忘れ去られていた地域史の一面を明らかにする機会を与えてくれます。これはサハリンのどの博物館の展示物にもなり得、20世紀前半の歴史を紐解くものとなるでしょう。
サハリンの住民は、日本軍が島々に駐留していたことを示す記念碑や証拠を保存する必要性について、組織的に問題提起しています。この点について、指摘しておかなければならないのは、歴史的過去をあらゆる現実と様相において研究しなければ、自国の将来について正しい結論を導き出すことは不可能であるということです。そしてここで、歴史的資料をどのような立場から公開し、保存すべきかを強調しておく価値があります。結局のところ、こうした歴史的資料は様々な意味で視覚的な教訓となり、特定の地域における特定の文化や民族がどのように消滅したのか、そして20世紀を通じて繰り返し行われた侵略的・拡張主義的な政策がどこへ向かったのかを、明確に示してくれるからです。
さらに、歴史的記憶の保存は、どこからともなく生まれるものではありません。具体的な事例を通して形成されていく必要があります。「黄金の鶏小屋」幼稚園から丘を100メートルほど登ったところにある、前述の「旧墓地」を歩けば、現代の怠慢と無関心を象徴する記念碑を目にすることができます。そこは完全に破壊され、放置された場所で、「1945年に亡くなったコルサコフ(大泊)市住民の追悼碑」(これは地域的に重要な文化遺産てある)も、大祖国戦争の退役軍人の墓も、同様にひどい状態です。
コルサコフ市当局が、既存および潜在的な文化遺産の保存と普及、そして慰霊碑の敷地の整備に協力することは、決して悪いことではありません。(sakh.online 2025/4/28)

