1890 年、有名なロシアの作家アントン・パブロヴィチ・チェーホフは「囚人と流刑者の生活を研究」するためにサハリン島を旅した。旅の準備として、チェーホフは100冊以上の著作や旅行者のメモ、研究者の論文、民族誌資料、17世紀から19世紀の役人の記録を研究した。
誰もがこの旅を理解していたわけではない。多くの人はこれを「不必要な企て」であり「荒唐無稽な空想」だと考えた。アントン・パブロヴィチ自身もこの旅の困難さを認識していたが、サハリンという「耐え難い苦しみの場所」に世間の注目を集めることが市民的かつ文学的な義務だと考えていた。
作家の弟ミハイルによれば、アントン・パブロヴィチは「秋、冬、春のうちに旅の準備をしていた」という。彼は島に関する本を多数読み、膨大な参考文献をまとめた。作家の素晴らしい準備作業は、アントン・パブロヴィチが旅に出る前に、すでに将来の本の一部を書いていたという事実からも明らかである。
1890 年 4 月 21 日、チェーホフは、ノヴォエ・ヴレーミヤ紙の特派員 IDを持ってモスクワを出発し、サハリンに向かった。ロシア横断の旅はほぼ 3 か月かかり、当時すでに結核を患っていた作家にとって信じられないほど困難なものとなった。作家が「乗馬の旅」と呼んだこの旅は、全行程 4,500 マイルに及んだ。
1890 年 10 月初旬、チェーホフは島での研究作業を終えようとしていた。彼は書類を集め、荷造りをしていたが、自分の重労働が終わったとは信じていなかったようだ。
10月13日、彼は義勇艦隊の蒸気船ペテルスブルグ号に乗り込んだ。夜、ペテルスブルグ号は日本海に向けて出航した。(サハリン・メディア2024/10/ 13)