択捉島出身のショウヘイさんから手紙が届いた。
根室空襲で米軍に父を奪われ、ソ連軍に島を追われた体験を2月16日付本欄で紹介した。
「島への訪問には体力が欠かせません。悔しい限りですが、これ以上無理は出来ないと自覚。訪問事業への参加は打ち止めと覚悟を決めました」–。
2018年、埼玉県在住のショウヘイさんは家族で「自由訪問」に参加。
蘂取浜(しべとろはま)に上陸し、先祖が眠る墓地へのお参りを果たした後、安堵したのか、転倒し後頭部を強打した。
「やめ時」–。高齢化する元島民にいつかは訪れる運命の時。
年齢とともに募る故郷への思いと裏腹に、衰えていく体力。
長い船旅、危険が伴うはしけ船への移乗、墓地までの行軍…元島民には過酷な道行きである。
4月に92歳になるショウヘイさんにも、折り合いをつけなければならない時がきたのかもしれない。
手紙はこう結ばれていた。
「今はコンクリートで覆われてしまった根室波止場の『石畳』は、船酔いに疲れた足で第一歩を踏みしめる大地であり、根室の文化を感じたものです。島には行けなくても、せめて根室へ旅したい気持ちがあります」と。
初めてお会いした4年前、その石畳の話を聞き、北方四島への玄関口として賑わったかまぼこ型の波止場があった本町岸壁を歩いた。
進学、結婚、商売、別離、応召、慰安、出稼ぎ、入院…
およそ人生のあらゆる事情を抱えた人々が交差し、踏みしめた石畳。
足の裏にしみ込んだ思い出。
わずかに残る、苔むした石畳が史跡標柱の傍らで、眠っている。
(北海道新聞2020年3月25日「朝の食卓」)
「千島への道は根室からであった」…
弁天島に向かって、かまぼこ型に突き出た根室波止場は、人生の様々な事情を抱えた人々が交差した北方四島への玄関口でした。
「千島への道は根室からであった」–。村田吾一さんが根室波止場の思い出を書き残しています。村田さんは、昭和3年から16年まで国後島の古釜布、植内、乳呑路の各学校で教鞭をとり、戦後は羅臼村の公選初代村長を務めた人です。
村田さんが書き残した「国後島の開拓者たち」と題した人物評の中の一節に、「千島への道」が収められています。飾らない文体、たぶん、うまく書こうなどとはこれっぽっちも思っておらず、文章は雑に見えますが、読んだ後に余韻を引く、人間味あふれる文章です。
千島への道は、根室からであった。勿論、郵船は函館を基地として、エトロフの貨物はその60%は函館からではあったが、その他の貨物と生活物資と人は、どの島へも根室が足場だった。千島丸、海平丸、北越丸、三国丸などが島への足だった。
乗船は何丸に乗ろうと勝手だったが、大概、国後へはどの船、何丸と何丸とか、色丹には何丸、離島には何丸、エトロフ通いは何丸と、その島々によってお得意船が自然と出来ている。それは経済圏と仕込み制度のためその様なことになっていたのである。
船は変わっても島への道で変わらない道が1つあった。それは根室の通い船会社前に、低く辨天島の方に向いて突き出されていた石畳のカマボコ型の波止場だった。
島へ出稼ぐ人も、結婚する人も、病気で入院する人も、夫婦げんかの果てに家出する人も、湯治や観光旅行の楽しい人も、内地の生まれ故郷へ墓参の人も、親の危篤の知らせを受けてあわただしい人も、召集入隊の人、裁判所に出頭を命ぜられた人、あらゆる社会の出来事と哀歓を心の中に秘めながら、必ず踏んだ石畳だった。
私は根室の港づくりのために埋没した、あの懐かしい波止場が消されたことに悲しさを持っている1人である。何とかの形でその一部でも復元して残してもらいたかった。
これから語ろうとする人々は、全部この石畳の上を、アッシを着、金持ちはインバネスを着、又親方衆は犬の皮の袖なしを着込み大きな荷物をさげて、はしけに乗り本船を夜霧の中に捜し出して乗ったものである。
ああ、なつかしき石畳の波止場、カマボコ型の乗船場、霧の中にぼんやりとかすんだ電灯の淡い光、その下に黒々黙って海の中に突き出ている波止場、その上をコツコツと歩き、飲んでホテッタ顔に、海風が心地よい。
乗り込みの時、彼女が波止場まで送って来てくれる。知人に顔を見られまいとして、電灯を背にして手をふる夜霧の中の別れは、島の多くの若人たちのみではなく、老若の、昔日の思い出の舞台であった。今はそれは消えて全くその跡さえない。
根室は千島のすべての根拠地であった。育つ子供に例えるならば、母親の乳房だった。物も網も、労力も文化も、慰安も知識もお金も、豊かに積み出される基地だった。一夜の歓楽をつくして英気を養い、しばしの別れとしんみりとした一時、懐かしい憩いの都でもあった。