歌われなかった、もうひとつの「兄弟船」
♬ はるか国後…島におやじもヨー 帰りたいだろうな

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(北海道新聞2020/12/18「朝の食卓」)

鳥羽一郎の「兄弟船」には、歌われることがなかった、もうひとつの「兄弟船」がある。

 はるか国後 船から見える

 今日も兄貴と 網を引く

 男の夢を かけてる海に

 誰がつくった 国境線を

 島におやじもヨー

 帰りたいだろな

作詞は札幌市在住の木村まさゆきさん、78歳。1981年にスポーツ紙とレコード会社が企画した「北海道のうた歌詞募集」で入選した。

この年、政府は2月7日を北方領土の日と定め、時の首相が視察。納沙布岬に返還を願う「四島(しま)のかけ橋」が完成した。釧路育ちの木村さんは「母の家が北洋に船を出していた。北方領土は身近だった」という。題名の「兄弟船」が先に浮かんだ。

鳥羽のデビュー曲候補として作曲家船村徹が曲をつけたが歌詞が問題になる。関係者はいう。「北方領土は政治色が濃すぎると差し替えが決まり、作詞家の星野哲郎に依頼した」

1982年5月。歌のお披露目に木村さんも招かれた。デビュー前の鳥羽が歌った「兄弟船」に、自分の言葉は残っていなかった。会場にいた星野が「ごめんね」と声をかけてきた。「悔しかった。でも雪のすだれを…という、あの歌詞は出てこないよ」

2006年にDVD化されたデビュー25周年公演。鳥羽はギター一本で「兄弟船」を弾き語った。「はるか国後 船から見える…島におやじもヨー 帰りたいだろな」―。木村さんの歌詞だった。元島民に生で聴かせたい、染み入る歌になっていた。

鳥羽一郎のデビュー曲にして代表曲でもある「兄弟船」には、歌われなかった、もうひとつの「兄弟船」がある。漁師の兄弟が、帰りたくても帰れない北方領土・国後島へのおやじの思いを綴った歌詞である。

作詞したのは札幌市在住の木村まさゆきさん、78歳である。

1981年(昭和56年)に北海道日刊スポーツ新聞社とクラウンレコード(現日本クラウン)が企画した「北海道のうた歌詞募集」で佳作に入ったのが「兄弟船」だった。

釧路市生まれの木村さんは高校卒業後、1961年(昭和36年)に上京。会社勤めをしながら雑誌「歌謡ロマン」などに自作の詞を投稿していた。19歳の時に作った「すずらんの丘」という詞がテイチクレコードの目にとまり、レコード化されたこともあった。 

「兄弟船」が佳作に選ばれた1981年。政府は2月7日を北方領土の日と定め、時の鈴木善幸首相が北方領土を歴代首相として初めて視察した。納沙布岬に返還を願うモニュメント「四島(しま)のかけ橋」が完成したのもこの年だ。

「母方の家が北洋に船を出していたこともあり、北方領土問題は身近だった」という木村さんは、還らぬ故郷の島を思う親の心情を背景に、力を合わせて「国境の海」で生きる漁師の兄弟を描いた。

題名の「兄弟船」が先に浮かんできた。

鳥羽のデビュー曲候補として船村徹が曲をつけた。だが、歌詞が問題になる。当時、レコード会社で宣伝を担当していた関係者はいう。「1番の歌詞に出てくる『誰がつくった国境線を』とか、3番の『何年たてば あの国後に みんなそろって 行けるだろうか』など政治色が濃い、微妙な内容が問題になった。当時ディレクターだった斎藤昇さん(後の日本クラウン社長)が詞の差し替えを決めて、星野哲郎に新たに書いてくれと頼んだのではないかと思う。斎藤さんは船村、星野の育ての親だから」

鳥羽のデビュー曲として、数曲が候補に挙がっていた。船村が推したのは「南十字星」–。兄が南方戦線のフィリピンで戦死している船村にとって、思い入れの強い曲だった。クラウンレコードの斎藤ディレクターは「流氷オホーツク」を歌わせたいと考えていた。デビュー前の鳥羽は何も言える立場ではなかったが、内心では「兄弟船」がいいと思っていた。

当時の宣伝担当者は「宣伝や営業の担当者による会議があって、一番支持を集めたのは『兄弟船』だった」と明かす。「南十字星」にこだわった船村も、後になって「やっぱり、そうだよな」と納得していたという。「兄弟船」は、完成度が高い楽曲に仕上がっていた。

木村さんは歌詞の差し替えを日刊スポーツ新聞社から知らされた。「クラウンが新人の鳥羽一郎を売り出すために、作曲は船村徹、作詞は星野哲郎、名前のある先生の方が良かったんだと思う」と、当時を振り返った。

1982年(昭和57年)5月。北海道日刊スポーツ新聞社の創立20周年パーティが札幌の京王プラザホテルで開かれた。その席で歌のお披露目があり、木村さんも招かれていた。デビューを目前に控えた鳥羽が歌った「兄弟船」に、自分の言葉は残っていなかった。会場にいた星野が「ごめんね」と声をかけてきた。

星野は「北海道のうた歌詞募集」の審査委員長を務めていた。入選した「兄弟船」の選評は「表現が弱い。ちょっと物足りない」というものだった。

「そりゃ悔しかったですよ。でもね、『雪の簾(すだれ)をくぐって進む』というあの歌詞、あれは普通出てこないよ。プロだなと改めて感心した」

2006年(平成18年)にデビュー25周年を迎えた鳥羽一郎は東京の日比谷公会堂で記念のコンサートを開く。9月26日のことである。ステージの幕が上がると、鳥羽は生ギター一本でデビュー曲の「兄弟船」を弾き語った。

それは星野哲郎が作詞した「波の谷間に命の花が…」ではなく、木村さんが作ったもともとの歌詞だった。

鳥羽一郎 25周年記念コンサート(2006年9月26日日比谷公会堂)より

さっきギターで歌った「兄弟船」–。あれが最初の兄弟船だった。

「波の谷間に 命の花が ふたつ並んで 咲いている 兄弟船は 親父のかたみ」

これは後からできたんですね。

「はるか国後 船から見える 今日も兄貴と 網を引く 男の夢を かけてる海に だれがつけたか国境線を 島におやじもヨー 帰りたいだろな」

というのが最初の兄弟船だったんです。

で、やっぱり何となく北方四島の、あの境界線の拿捕された、そういう歌になっちゃうから、こりゃやめようと言って、歌詞を代えて、今歌った「波の谷間に命の花が」になったんですね。

帰りたくても帰れない故郷の島、国後への思いを歌った幻の「兄弟船」は、この時のコンサートを収録したDVD「鳥羽一郎25周年記念コンサート」で聴くことができる。

元島民に生で聴かせたい、染み入る歌になっていた。

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