北方領土のお墓にお参りするということ

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北方領土の元島民が故郷の島に渡って先祖を供養する「北方墓参」が中断して5年になる。このことが何を意味するのか。

この5年の間に733人の元島民が亡くなった。故郷の土をもう一度踏みたいと願いながら、逝ってしまった元島民の顔が何人も思い浮かんでくる。そして、まだ元気だった85歳の元島民は90歳になった。体力・気力の衰えから島へはもう渡れないとあきらめた。

最近、こんな話を耳にした。ちょうど90歳になった元島民、仮にAさんとしておこう。ビザなし交流で知り合ったロシア人島民が、Aさんの先祖のお墓の世話を何十年もしてくれていた。Aさんは、自分はもう歳だし、ロシアによるウクライナ侵攻の影響で北方墓参が実施できない状態が続き、もう島に行ける見込みがないので、お墓の世話はやめてくれていいからと、ロシア人島民に伝えたという切ない話だ。

北方墓参が始まったのは今からちょうど60年前の1964年である。人道的見地から、旅券・査証なしの身分証明書による入域という特別な方式で実施されてきたが、過去に3度中断している。最も長かったのは1976年から1985年までの10年間で、この時はソ連側が、外国旅行と同様に、有効な旅券とソ連政府が発行する査証を求めてきたことが理由だった。

日本の対ロ制裁に対抗してロシア側はビザなし渡航のうち四島交流事業(ビザなし交流)と元島民が居住地跡を訪ねる自由訪問の合意の効力を停止した。(「合意の効力の停止」とは日本外務省の表現であり、協定は破棄されたという受け止めもある) ただ、ロシア側は人道的観点から北方墓参の枠組は有効としているものの、現時点で再開の時期を見通すことは出来ない。4度目の中断がどれほどの長さになるのか、誰にも分からない。

元島民や後継者などで組織する千島連盟によると、北方領土には52カ所の墓地があり、4,767人が埋葬されている。この5年間、日本人が訪問できていない中で、お墓はどんな状態になっているのか。色丹島の斜古丹墓地は、ロシア人住民が定期的に清掃をしてくれており、その様子をSNSで知らせてくれるが、ほかの墓地の様子は全く分からない。

ロシアによる北方四島の開発は、かつてのような勢いは失われたものの、新しい学校や住宅、商業施設、道路などの整備が続ている。その一方で、かつての日本人の暮らしや営みの痕跡は失われている。

8月29日付の北海道新聞によると、択捉島では戦前、日本が建てた紗那国民学校の木造校舎が火災で全焼し、紗那の孵化場も建屋が解体されて、残っているのは養魚池だけになった。これも数年以内に撤去されて近代的な孵化場に建て替えらるという。

木と紙でできた四島の日本文化は失われ、最後に残るのは石で造ったお墓だけになるのだろう。

近頃、お盆の時期のニュースといえば、墓石を撤去する「墓じまい」やお墓を新たな場所へ移し替える「改葬」の話題が取り上げられている。先日も「北海道内では、墓じまいを伴う改葬の件数が、この10年で2倍以上に増え、年間1万2000件を超えました」と、テレビのニュースがやっていた。墓じまいでいうと、北海道は東京に次いで全国2番目に多いという新聞記事もあった。

少子高齢化や核家族化により「身寄りがない」「お墓を継承する人がいない」「お墓の管理が大変」「お墓が遠方でお墓参りが難しい」といった事情に加えて、新型コロナの影響でお墓参りが出来ない時期があったこと、樹木葬や散骨など改葬後の選択肢が増えたことが背景にあるという。

北方領土の場合、お墓を引き継ぐ人がいなくなったからと言って、墓じまいや改葬をするわけにはいかない。必要な手続きが物理的に出来ないということはもちろんあるが、むしろそれ以上に、お墓がそこに存在することやそこにお墓参りに行くという行為自体が、特別な意味を持っているからだろう。

端的にいうと、私的行為とされるお墓参りだが、北方領土に戦前からある墓地への墓参は私的行為でありながら、わが国の領土であることの無言の主張になり、日本人のお墓の存在が我が国領土の目に見える証の1つにもなっている。

ウクライナへの侵攻で対ロ制裁を課している日本は、日本企業が出資するサハリンの石油・天然ガス開発プロジェクトを国益として堅持しているが、北方墓参もまた日本が将来にわたって守り抜くべき国益であると、私は思っている。

「せめて、島に近づいてお参りがしたい」–平均年齢89歳を超えた元島民の願いを受けて、今年も「洋上慰霊」が行われた。千島連盟や北海道、北方領土問題対策協会が共催しているもので、8月から9月にかけて根室港を発着港にして7回実施され、私は元島民2世の立場で歯舞群島コースに参加した。

その日は好天に恵まれ、納沙布岬沖の海上から、目の前に貝殻島の灯台や水晶島、勇留島、秋勇留島を望みながら慰霊をすることが出来た。いわゆる中間ラインの向こう側には、色丹島の基地から来たロシアの国境警備隊の警備艇が遊弋、こちらを監視していた。一方、根室海保の巡視船は、相手方を刺激しないようにとの配慮なのか、控えめに一定の距離をとっていた。両国のコーストガードが出てきて緩やかに対峙する中で慰霊式が行われるのも、カッコ付きの国境の町・根室ならではの光景ではある。

私が参加した洋上慰霊で印象的だったことは、参加できた元島民がわずか3人だったことと併せて、幼い子供を連れた若い家族連れが目に付いたことだった。島で生まれた元島民が1世で、その孫の世代に当たる3世の家族ということになるのだろう。

どうして船の甲板に祭壇を設け、島を眺めて頭を垂れているのか、その理由などまだ理解できるはずもない幼い子供たちが、若い親の真似をして小さな手を合わせている光景は、ほほえましくもあり、そして頼もしくもあった。

お墓は、その人がその場所で確かに生きた証である。今度いつ島に渡って墓参が出来るのだろうか。再開されたその時に、いったい何人の元島民が参加できるだろうか。時の経過は容赦なく、残酷である。

「元島民に限って、ビザを取ってでも墓参に行けるようにしてはどうか」–。今回の洋上慰霊では、そんな声も出ていた。その場にいた外務省職員に向けて、墓参再開に向けた協議を国として真剣にやってほしい、との裏返しのメッセージだったのかもしれない。

冒頭の元島民Aさんの話には続きがある。もう、お墓の世話はいいからと言われた島のロシア人は、心配しないで、自分の母親のお墓もあるので一緒に世話をするから、と話したという。

来年は戦後80年。ロシア人が島に住み始めて80年ということだが、当然ながら島のロシア人の中にも、代を重ね、島で亡くなった親兄弟のお墓を守っている人がいるのだ。

(ボストーク59号(NPO法人ロシア極東研機関誌)2024年10月15日発行)

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