突然の侵攻「8月28日、ソ連軍に占拠された」「屋内ニ侵入金品ヲ掠奪スルコト平然」

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産経新聞2020年8月27日 戦後75年 領土の記憶(1)

突然の侵攻「8月28日、ソ連軍に占拠された」

    北方領土ソ連(現ロシア)に不法占拠されて8月28日で75年になる。1855年の日魯(にちろ)通好条約で日本領と定められた択捉(えとろふ)、国後(くなしり)、色丹(しこたん)、歯舞(はぼまい)の北方四島は一度も外国の領土になったことがない固有の領土だ。どのように奪われたのか。元島民の証言や史料を基に深層を探る。(編集委員 宮本雅史

郵便局に押し入ってきた十数人の武装兵士

 「ソ連軍に襲われた」。択捉島南西部の留別(るべつ)村に住んでいた三上洋一さん(83)は当時8歳。留別郵便局長の父、一郎さんが血相を変えて自宅に駆け込んできた日のことを鮮明に覚えている。

 昭和20(1945)年8月28日。わずか2週間ほど前、郵便局の庭に大勢の村民が集まり、玉音(ぎょくおん)放送を聞いたばかり。戦争は終わったと信じられていた。

 まだ朝霧が残る昼前、留別郵便局に十数人の武装した兵士が突然、押し入ってきたという。7人の局員は銃を突き付けられ、局員1人だけを残して外に出されてしまう。一郎さんは村役場に伝えに走り、局員は島民に戸締まりをするように注意して回った。

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  これまでソ連人と交流機会のあった一郎さんは、言葉でソ連兵と分かったという。「米軍なら分かるが、なぜソ連軍が…」。そう繰り返す一郎さんの表情が、今も三上さんのまぶたの裏に焼きついている。

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三上洋一さん

 《昭和20年8月28日正午ごろ、ソ連軍は2隻の掃海艇で留別湾から択捉島に上陸し、約500人の兵士で留別村を占拠した。日本が降伏していたにもかかわらず、択捉島に続いて国後島色丹島を占領。9月2日の降伏文書調印後の3日には歯舞群島に侵攻し、5日までに北方四島を占拠した》

 

 帰宅した一郎さんはすぐに局員と隣村・紗那(しゃな)村の紗那郵便局に向かった。島で唯一の電話中継局だった留別郵便局が奪われたため、無線局のある紗那郵便局から電報を打つためだった。

 山道を約28キロ。一郎さんらは途中、ソ連兵に狙撃されながらも約9時間半かけて紗那郵便局に到着する。北海道・根室の落石(おちいし)無線電信局長宛てに「8月28日午前10時にソ連軍が留別に上陸し、郵便局と学校が占拠された」と打電した。

  《北海道根室支庁(現根室振興局)の公文書『千島及●(=離のふるとりを取る)島(およびりとう)ソ連軍進駐状況綴(つづり)』=注釈〔1〕=に「八月二十八日正午 ソビエート軍艦二隻 留別ニ上陸セリ…電信不通 詳細分明(ぶんめい)ナラズ ソビエート軍艦ハ尚(なお)滞在中」との紗那村長の電報が残されている=注釈〔2〕》

 

 島民たちは情報が全くない中で、突如始まったソ連軍の侵攻を、ただ見ているしかなかった。

  三上さんはこの日、自宅でマキリ(アイヌ民族の短刀)を腰にさし、母と弟と一郎さんの帰りを待った。翌朝、無事に帰宅したが、「気が気でならなかった。生涯でいちばん長い日だった」。

  この日を境に北方四島の島民約1万7000人の生活は恐怖と戦う日々へと変わった。

顔に炭を塗り頭髪を剃って男装

 高橋節子さん(93)は昭和20(1945)年8月、18歳のときに択捉島紗那村の実家で終戦を迎えた。東京・九段の女学校に通っていたが、夏休みで帰省中だった。9月から始まる新学期に向けて東京に戻る準備を始めたが、8月15日以降、北海道・根室港や函館港からの定期船が来なくなってしまった。

 

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高橋節子さん

 東京に戻れずにいると、日ソ中立条約=注釈〔3〕=を一方的に破って対日参戦したソ連軍が8月28日、択捉島に上陸し生活は一変する。「9月の初めころから、偵察部隊なのか、ソ連兵が出入りするようになった」からだった。

 当時、高橋さんの実家には武装解除した7人の日本兵が住んでいた。ある日の早朝、そのうちの1人に突然起こされた。寝ていて気づかなかったが、4人のソ連兵が家に入ってきたという。日本兵銃口を向けられたが、トイレだといってその場を離れ、高橋さんを起こしに来たという。

 「台所の流し台の窓から外に逃がしてくれました。私は海岸沿いをひたすら走りました。それで、家にいると危ないからと、海軍の監視所のあった山に隠れることにしたのです」

 小学校時代に同級生だった友人と2人で洞窟に身を隠した。3日間ほどたって自宅に帰ると、いや応なしに頭を丸刈りにされた。顔に炭を塗って黒くし、男性用のズボンをはかされた。「髪の毛を剃(そ)って男装したのは、ソ連人が『馬を3頭出せ』と言ったのを、『女を3人出せ』と間違って広まったためでした」

  さらに、実家の天井裏に布団を敷き、友人と2人で毎日午後8時になるとはしごをかけて上り、翌朝、明るくなってから下りるという生活が始まった。

 そんな生活が3カ月ほど続いた。「天井裏に隠れているとき、ソ連兵がガラガラと戸を開けて入ってきて勝手に衣類などを荒らし、鍋や釜などを持っていってしまった。怖かった」

 

 《北海道根室支庁(現根室振興局)の公文書『千島及●(=離のふるとりを取る)島ソ連軍進駐状況綴』には当時の様子が残されている。「飲酒ノ結果婦女子ノ名誉ヲ害セントセシソ兵及ソノ危険ニ遇(あ)ヒタル婦女子数名アルモ目的ハ達(たっ)セラレズ、ソ兵ハ処罰セラレタルモノモアリ…島民モ最初ハ婦女子ヲカクシタルモ現在ハ此ノ如(ごと)キコトナク穏ヤカナルモ、何時(いつ)、如何(いか)ナル変化起キルヤハ予測出来(でき)ズ…」。常に危険と隣り合わせという緊張感が伝わってくる》

 

屋内ニ侵入金品ヲ掠奪スルコト平然

 国後島留夜別(るよべつ)村に住んでいた廣瀬多喜子さん(86)も忘れられない記憶がある。

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廣瀬多喜子さん

 昭和20年の9月初旬だった。既に国後島にもソ連軍は上陸していた=注釈〔4〕。初めて外国人を見た廣瀬さんは「父に『鬼がいっぱい来ている』と言うと、『ソ連兵だ。外に出るな』と注意された」という。

  別のある日、自宅で留守番をしていると、銃を構えた2人のソ連兵が半長靴を履いたまま家に上がりこんできた。何か話しかけられたが、意味が分からない。怖くて声も出せず後ずさりしていると、押し入れにぶつかった。

  その瞬間、1人がライフル銃の銃口を腹部に突き付けてきた。そして、押し入れの前から離れるように促された。

 「ソ連兵は押し入れに何か隠していると思ったのでしょう。このあたりです。今でも銃を突き付けられたときの、ひんやりした感触は忘れられません」

  《国後島留夜別村長は根室支庁に「上陸直後ハ相当悪辣(あくらつ)ナル掠奪(りゃくだつ)行為ヲ為(な)シタルモ 其(そ)ノ後ソ連憲兵ガ島内治安維持ニ当リ…稍(やや)減少セルモソ連憲兵ノ威例(令)未(いま)ダ島内全般ニ行ハレズ 尚(なお)其ノ跡ヲ絶タザル状態ニアリ」と報告している》

 

 《『千島及●(=離のふるとりを取る)島ソ連軍進駐状況綴』にも「兵卒ノ統制徹底セズ 屋内ニ侵入金品ヲ掠奪スルコト平然 牛馬ノ徴発(ちょうはつ)ハ日々ニ数ヲ増シ 婦女子ニ対シ未遂ニ終リタルモ暴行ヲ揮(ふる)ヒタルコト 我(わが)区内ニモ二、三アリ」とある。国民学校の校長が根室支庁に宛てたもの。女性が関係した悲惨な事件が多発したという記録は見当たらないが、治安は確実に悪化していた》

 

 高橋さんは、こう振り返った。「噂ばかりで、何が起きているのか分からなかった。命があったことをありがたいと思うほかない」

 

■今回の証言者

三上洋一さん 昭和12年4月、択捉島留別村生まれ。北海道大農学部卒。農学博士(東大)。日本専売公社日本たばこ産業)で特許室長、(塩専売)海水総合研究所長などを歴任。現在、千島歯舞諸島居住者連盟「北方領土語り部」に登録し、返還を訴えている。相模原市在住。

高橋節子さん 昭和2年1月、択捉島紗那村生まれ。実家は海藻店や缶詰工場などを経営していた。旧ソ連軍の侵攻後は両親と姉妹3人の計6人で両親の出身地・青森県大間町で暮らした。その後、単身上京し結婚。現在は東京都渋谷区在住。

 廣瀬多喜子さん 昭和8年12月、国後島留夜別村生まれ。父は逓信省職員で乳呑路(ちのみのち)郵便局に駐在し、電話通信業務に従事した。結婚後は全国8カ所に転居し、行く先々で「北方領土ってどこ?」などと言われ、悔しい思いをした。川崎市在住。

 

注釈〔1〕 ソ連軍が昭和20(1945)年8~9月、北方四島に侵攻した際、各村長らが状況を伝えた通信記録や、脱出した島民らからの聞き取り記録などを収めた北海道の公文書。平成4(1992)年に根室支庁から北海道立文書館に引き渡された。

注釈〔2〕 旧ソ連側の記録として、スラヴィンスキー著『千島占領-一九四五年夏』(共同通信社)には、8月28日午後1時15分に掃海艇2隻が留別港に着き、午後2時に上陸を開始したと記されている。日本とソ連の時差は2時間なので、『千島及●(=離のふるとりを取る)島ソ連軍進駐状況綴』の記録と合致する。

注釈〔3〕 昭和20(1945)年2月、米・英・ソの連合国3首脳がヤルタ会談で、相互の領土保全と不可侵を約束した日ソ中立条約(1941年締結)を破棄してソ連が対日参戦すれば千島列島と南樺太の領有権を認めることを密約した。米国は戦後、法的根拠を認めない姿勢を示している。

注釈〔4〕 『千島及●(=離のふるとりを取る)島ソ連軍進駐状況綴』には、ソ連軍が国後島に上陸したのは昭和20(1945)年9月1日午前5時で、色丹島上陸は同日午前6時55分とある。歯舞群島上陸は9月5日の報告に出てくるが、詳細は記録されていない。

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