『昭和初期に国後島ほどスキー体育に積極的に取り組んだ例はない』

北方領土遺産
国後島のまれびと–猪谷六合雄の流儀②
    猪谷六合雄さんが1929年(昭和4)に国後島・古丹消に移住した頃、人口200人の村にはスキーと呼べそうなものは2、3台しかなかった。この当時の国後島では郵便の集配や営林署の職員らが山歩きの際にスキーを使うのがせいぜいだった。
 国後尋常高等小学校の代用教員だった山内順一さんは「国後島・泊にスキーが入ったのは古い昔、営林署で冬山歩きをするためのもので、ノルウェー式のもの(単杖)。スポーツとして盛んになったのは、猪谷六合雄氏が古丹消に住みついてからで、毎年氏を招へいして講習を受けたものだ」と書き残している。(千島教育回想録)
 猪谷さんは、小屋づくりが一段落すると、裏山にジャンプ台とゲレンデの造成に取り掛かった。最終的にジャンプ台は大小7つもこしらえた。
 猪谷夫妻のスキー練習を見ていた村の娘さんや奥さんが習いにやって来た。スキーを持っていない子供たちのために、手先の器用な素人大工にスキー板の削り方を教え、子供たちに安くこしらえてもらえないかと頼んだ。スキー1台の削り賃は焼酎四合だった。子供たちは山でナラや桜を伐ってきて、焼酎を添えて大工さんに持っていくと、数日後にスキーが出来ていた。

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写真 猪谷さんからスキーを習った古丹消の女性たち。右端は千春氏(「雪に生きる」より)

 古丹消にスキーブームが到来した。噂を聞きつけて近隣の村からもやってきた。とりわけ熱心だったのは学校の先生たちだった。猪谷さんから手ほどきを受けた学校の先生たちが残した手記(千島教育回想録)に猪谷さんとスキーの思い出が記録されている。

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沢山寅太郎(昭和6年~7年、泊国後小学校長)
裸のジャンプスキーで、当時のスキーファンをびっくりさせた猪谷六合雄さんが、古丹消にガラス張りの小屋を建てて生活をしておられた。営林署の須藤主事(元羅臼校代用教員)のおかげで私共が猪谷さんからスキーの講習を受けることが出来たのである。講習は学校の裏の稲田というゲレンデで微に入り細にわたる親切な講習で、私共は第一日目でシュテムボーゲンをマスターして、シュテムクリスチャニヤの技にまで進んでしまったのだから、その指導がいかに巧妙なものであったかがわかる筈である。私はもう40才になろうという時に、スキーに病みついてしまったのである。稲田に住んでいた二階堂さんたちは「泊で鳥が鳴かない日があっても、校長が稲田に見えない日はない」と、笑われるほど、いかなる吹雪の悪天候の日も、私の稲田への日参は欠くことがなかったのである。若い独身だった宮脇先生、簗田先生はスキー狂ともいうべき私と共に遊び、そして何かと助けてもらったことは、今思い出しても、ありし日の若さを懐かしむ心で一杯になるのである。

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写真 猪谷さんの裸ジャンプ。より遠くへ飛ぶために裸で飛んた

(「雪に生きる」より)

 

山内順一(昭和8年国後尋常高等小学校代用教員)
御子息千春君が4才で郵便屋さんが来ると毎度回転の仕方を教えていた頃、私は一週間、温泉宿に泊まり朝から夕方まで、猪谷氏と2人きりでジャンプの練習をし、前傾姿勢がどうしたら出来るかを研究したが、共に満足に出来る域に達せずに終わった。翌年雪の少ない年だったが、友人3、4人で古丹消を訪れ、前傾(フォーアラゲ)が出来るようになった私を見て、午後青年をかりたてて、七号シャンツェに雪をかき集めて、アプローチとランデンクバークに1.5メートル巾くらいに敷き、写真を撮ってくれた。当時大倉シャンツェが出来たばかりの頃で、『山内さん大倉シャンツェをとべますよ。一度ためしてごらん』といわれたが、その気にはなれなかった。しかし、猪谷氏は島から大倉をとぶ者を出したかったようである。奥さんは片目が義眼の方だったが、すでに25メートル位はとんでいたことを紹介しておこう。

宮脇信雄(昭和6年~9年、国後尋常高等小訓導)
泊山を背にした古丹消にガラスの多い家を建て、温泉を引いて暮らしている一風変わった人がいる話は聞いていたが、その人がスキーの先生で、ジャンプ台をいくつもつくり自ら飛んで、その設計を研究していた猪谷六合雄さんであった。どのような話で来て貰うようになったのか全く知らなかったが、スキー講習が地元で開かれた。おとな子ども2、30人参加したが、実に懇切丁寧で一つ一つ手をとって教えられ、解りやすく初歩から高等技術まで指導を受けた。自己流で山野を駆けずり廻った私はスキー技術は理論づけられ、一段と飛躍して向上した。この講習はわずか3日間であったが、国後のスキーはこれを境に全盛時代となった。冬になるとスキー体育で時間一っぱい山野をかけずり廻った。もちろん全校スキーで、スキーのない者には貸しスキーも与えた。昭和初年代に、すでにスキー体育に積極的に取り組んだ学校の類例は余り聞いたことがない。その後、2、3年と受講して今度は吹雪をついて泊山を越え六里(24キロ)の古丹消へ泊り掛けで出掛け、猪谷さんにスキーを習った。スキーは雪の世界の下駄として、ワックスの知識からスキー製作の理論まで学んだ。ジャンプはあまりにも高く、飛べなかったが、猪谷式の手袋の編み方まで、見よう見まねで自分も造った。猪谷さんの生命はスキーの研究にあった。スチールエッヂのスキーやエボナイトエッヂの試作、アザラシ皮の貼りつけ、カンダーハー締具の研究、スキー靴とスキー本体との固定方法、ジャンプスキーの改良点など、誠に蘊蓄の深い進んだ研究をされており、古丹消の地の利を生かして、40、50、60メートル級のジャンプ台を自ら飛んで完成された。大倉山や宮様記念シャンツェ等の端緒となる研究をされていた陰の功労者であった。一人息子の千春さんがヨチヨチ歩きでスキーを引っかけ歩き廻っていたことを考えると誠に隔世の感があるが、そんな時代にコツコツ研究を積み上げられた功績を讃えたい。

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