北方領土遺産『クリル探検。ネガと文書…1946』…④

1946年のクリル遠征隊の記録 ~国後島編~

国後島(1946年6月16日~7月10日)

羅臼山      6月21日

ニキシロ     6月23日

瀬石       6月26日~29日

羅臼山硫黄山   6月29日

泊        6月30日 

古釜布      6月30日

泊村       7月 2日

古丹消 一菱内湖 7月 3日

東沸       7月 4日

オショウス    7月 5日

キナシリ     7月 6日

瀬石       7月 7日~9日

 

遠征隊に同行した写真家イワン・クワチが撮影した国後島・瀬石国民学校の運動会の様子(写真はいずれも1946年7月7日撮影)。 日本人に混じってソ連の軍人たちの姿も見られる。

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瀬石国民学校の児童たち(1946年6月29日)

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瀬石の日本人の娘たち(1946年7月7日) 

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「着物」着た日本の女性(1946年7月7日) 

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瀬石の南部の集落(1946年7月7日) 

 

●…アルチュシェンコフ隊長の報告(1946年7月10日)

『準備の段階で非常に苦労しています。馬を借りるのも不可能になっています。島の人は全員、何かを建設中で自分達でも馬が足りなくなっているのです。小船のほうも全部修理中か、燃料切れか、もしくは漁に出ているので、そちらの見込みはさらに良くありません』

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国後島の瀬石から泊に行く船に乗る遠征隊(1946年6月30日)

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国後島の瀬石を見下ろす高台に立つ遠征隊(1946年6月23日)

 

●…経済地理学者テレションコフ氏の報告(1946年7月10日)

『漁業及び林業の企業の復興は、クリル列島国立漁業協同組合の南部支部によって行われています。この島の状況は色丹島と変わらず、日本人が残した機材は生産能力が低く、技術も古くなっているため、一部の企業は復興されていますが残りは廃業しています。昔は、東沸村及びオショウス村に軍隊付属の製材工場がありました。古い製材工場は現在修理中で、乳呑路(テャティノ)に新しい製材工場が建設中です。古釜布と泊村では魚処理工場が稼働しています。なお、泊村の石灰工場、寒天工場は復興しました。日本人の管理下で寒天工場の生産量は5,000kgになっていましたが、最大生産能力には達していません。

 南部支部は、留別村紗那村、古釜布及び志発島の魚処理工場、色丹島のガラス瓶工場、魚・鯨処理工場、さらに東沸村や乳呑路などの製材工場を管轄する機関を管理しています。なお、上記の施設の中で工事中のものもあれば、計画に過ぎないものもあります。従って、現時点で上記の施設は全て創設の段階にあって、それに伴う労働者、専門家及び部品不足などの問題を抱えています。場合によって、些細な部品の不足さえ大問題になったりします』

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水車を使用しているオショウスの製材工場(1946年7月6日)

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改修中の泊村にある寒天工場(1946年7月2日)

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石灰工場の敷地内に山と積まれたホタテの貝殻(1946年7月2日)

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古釜布の缶詰工場(1946年6月30日)

 

●…コルスンスカヤ氏の手紙(1946年7月18日)

『あなたが仰ったように我々が訪れたから晴れたのか、この列島の気候は皆さんが言うほど悪くないのか分かりませんが、雨や霧はかなり少なかったです。この情報は、移住者を招き入れるために新聞で報道したほうがいいと思います。

 国後島に住んでいるロシア人と話してみたら、皆さんは自分で釣りに出たり、家庭菜園で野菜を育てたり、自給自足しています。ところで、ここではジャガイモが冬でも土の中で凍らず、春になると自然に芽生えてきます。若者は仕事をして、配給品の他に高い給料を貰っています。大きな集落及び軍隊基地には、映画も配給されています。女性は全員尊重されていて、独身の女性は結婚相手の選択肢がたくさんあります。今言ったことは、もちろん新聞に載せないほうがいいと思います〔笑〕。その上、国後島には自然が豊かで温泉も湧くリゾートにふさわしい場所が数カ所あります』

 

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瀬石郊外にある温泉保養所(1946年7月7日)

 

●…経済地理学者テレションコフ氏の報告(1946年7月10日)

『この島、特にオホーツク海岸部及び南部の気候は、野菜の栽培と畜産を行うのに大変適しています。色丹島と違い、この島ではスイカやカボチャやトマトやキュウリなどを育てることができます。笹も比較的に少ないため、土壌は耕耘しやすいです。

 日本人は、色丹島と同じく国後島でも馬を飼っていたので、この点も畜産の可能性があります。ところで、その馬は、年中屋外で草を食べ、自由に繁殖し、自然死を迎えていました。現時点では、この島に良質の野生馬がたくさん見られます』

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キナシリで畑仕事をする日本の女性(1946年7月6日)

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泊村の日本の子供たち(1946年7月2日)

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荒れ果てた泊村の松泉寺と放置された神輿(1946年7月2日)

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瀬石の国境警備隊基地で(1946年6月26日)

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瀬石の国境警備隊基地で(1946年7月6日)

 

●…経済地理学者テレションコフ氏の報告(1946年7月10日) 

色丹島国後島調査の主な結論≫

1 色丹島及び国後島は天然資源が豊かで、開拓に相応しい。

2 この島々の最も価値のあるものは、様々な魚介類や森林、野菜の栽培と畜産に適切な

   土地です。

3 日本人が残した機材は非常に少ないため、修理や建設や技術的な発展は当初難しく

   なっています。これらの残り物は“さほど”と言うよりも“全く”役に立ちません。

4 この島に労働者を招くことは、第一の問題になっています。そのため次のことが必要

   となります。

       a) 優良な宿泊施設の建築

       b) 漁業協同組合が物流の改善に関わるという約束を守ること

       c) 大陸との連絡手段の改善

       d) 生産能力を上げるため、企業の労働環境の改善

       e) 野菜の栽培と畜産の発展、その他の農業の可能性の調査

5 我々の領土に残った日本人は、現在無職になっていますが、同時に、未使用の魚介類

   が残っています。従って、この魚介類を日本人の団体に処理してもらう可能性を考慮

   しなければなりません。そうすれば、彼らも生活費を確保できるようになります。

 

 

 

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