❐1920年に建設された紗那ふ化場は98年たった今も現役
戦前の択捉島に日本人が建設したサケ・マスふ化場が今も紗那と蘂取に残っている。
紗那のふ化場は択捉島真ん中あたり、オホーツク海にそそぐ紗那川河口から20km上流にあり、1920年の建設から98年たった今もロシア側がふ化場として活用している。
「北海道さけますふ化場」が発行していた「魚と卵」133号(1970刊)に戦前の択捉島のサケ・マスふ化事業について、当時紗那ふ化場に勤務していた八木沢喜家氏の回想録が掲載されている。八木沢氏は1931年(昭和6)に当時民間の択捉水産会が運営していた紗那ふ化場に勤務。1948年(昭和23)の引き揚げまで、民営から国営移管されたふ化事業の変遷やソ連占領下のふ化事業を目の当たりにした。
八木沢喜家氏
≪八木沢氏の回想録から≫
択捉島では水産資源保護政策としてサケ・マスの人工ふ化事業が積極的に実施された。栖原角兵衛が1890 年(明治23)に当路湖畔に簡易ふ化場を設置し、ふ化伝習生を募集して技術者を養成したことに始まる。一方、北海道庁は藤村信吉技手を派遣して各地区のふ化場建設予定地の調査を実施した。1895年(明治28)には、択捉島水産組合によって、藤村技手の設計により別飛と紗那に700円の経費でふ化場が建設された。
しかし、その年は不漁のためふ化器などの購入は到底負担に堪えず、翌年は組合の役員更迭の結果、事業計画が変更になり建物は売却された。1910年(明治43)になって、択捉島水産組合は留別川にふ化場を建設し、続いて1920年(大正9)には紗那に新設した。
ふ化場は湧水または地下浸透水の湧出する地に設備され、アトキンスふ化槽を平水または階段式に使用していた。ふ化場は民営時代よりコンクリート基礎の木造平屋建てであるが、紗那事業場ふ化室 (545㎡)を改築する際、床下に養魚池を設置し、1~2月の吹雪時に孵出盛期の稚魚をそこに放養するようにしたので、作業と管理が大変容易になった。その際に事務室と宿舎を階上に設け、建物を立体的に活用することを設計者に希望したが、現在のような建材のなかった当時としては木造建築のふ化窒の上に宿舎を設けることについては、どうしても採択されなかった。
❐1929年建設された比良糸ふ化場
択捉島北部の蘂取にある比良糸(びらいと)ふ化場は、栖原合名会社が今から89年前の1929年(昭和4)に建設し、その後国営化された。ふ化室は272㎡で養魚池1.188㎡の湧水式だった。2001年の元島民によるふるさと訪問(自由訪問)で、建物2棟と「昭和四年十月十日」と刻まれた落成記念碑が現存していることが確認された。
≪八木沢氏の回想録≫
「養魚池は 一部を除いて木造であるが、当路、比良糸事業場は玉石を積んでモルタル詰めした堅牢で永久的なものであった。比良糸事業場には構内に創立記碑があり、監督者白井義雄と彫られていた。
❐ソ連軍による占領 ふ化室入口に「鎌とハソマー」のソ連マーク
≪八木沢氏の回想録から≫
紗那港にはソ連軍200名が上陸し、すぐに警察署を接収し、署長以下8名が留置された。小高い丘の警察署庁舎には終戦まで毎月8日の「興亜奉公日」には、屋上高く日章旗を掲揚していたが、この日は「鎌とハンマ一 」のついた大きな赤旗が掲げられた。その日私達は初めて敗戦を現実に感じ、万感胸に押しつまり只々茫然とした心境だった。ラジオはスターリンの声明で「千島列島はソ連が領有するであろう」との報道を伝えていた。
択捉支場管内の事業場は接収解体のうえ他に転用されたが、紗那事業場だけはソ連民政部によって従来通り事業を続けることになった。ふ化室入口に「鎌とハソマー」のソ連マークを大きく赤で書かれても当時の吾々としては如何ともすることが出来なかった。
1945年(昭和20)の終戦よってソ連の支配下となり全道のふ化事業量は35%減少した。
比良糸ふ化場に咲いていた千島桜
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