❐通学路の安全と装備調達のために村の人たちが造成した
国後島留夜別村で12年間、教育に携わった田村久之助さん(故人)が「千島教育回想録」(1977年発行)で、赤岩にまつわるエピソードを紹介している。
1935年(昭和10)に植沖小学校の校長として赴任した時のこと。当時、植沖地区では小学校を卒業した子供たちは強制的に青年学校に入り、そこで軍事教練が行われた。年に一度、陸軍大佐が来村し、厳しい査察が行われた。
ちょうどひどい不況下で、余裕のない村では教練に使う背嚢(リュツクみたいなもの)、帯革(バンド)、銃剣などの装備を新調できず、手作りのみすぼらしいものしかなかった。
子供たちに肩身の狭い思いをさせたくないと、地区の中心校だった植内小学校の村田吾一校長(羅臼村公選初代村長、故人)が音頭をとり、植内、植沖、代々別の3小学校区の青年団が協力して、公共工事を請け負い、その代金で装備を整えることになった。
潮か込んでくると、道は海水にのみ込まれた。(1939年撮影)「懐かしの千島」より
その公共工事が、赤岩防波堤工事。オキツウスから植内に向かう途中にある、通称赤岩。海に突き出た小さな岬だが、潮が込んできたり、波が高くなると道路が冠水、通学する子供たちにとって危険な場所だった。
3地区から毎日100人の青年団員が連日作業を行い、1ヵ月以上かかって完成させた。80年以上経過した現在、赤岩には防波堤基部のコンクリートがところどころに残っている。
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