択捉島紗那にある消防署や図書館が入っていた建物が日本時代の「紗那国民学校」だと確認されたのは2013年のことだった。修復工事をしていた島の建設会社が、屋根裏から布製の赤い袋を見つけ、その中から、1940年頃の日本語の新聞やポスターとともに、児童が描いた絵画や習字が出て来たことがきっかけだった。
紗那国民学校は1938年(昭和13)に建設され、当時の名称は紗那尋常高等小学校だった。ソ連占領後は、日本人が島を追われるまで、日本人の子供とロシア人の子供が午前、午後に分かれて同じ校舎で勉強した。
1938年(昭和13年)落成当時の学校。当時は紗那尋常高等小学校(千島連盟提供)
ソ連占領下の1946年9月9日に撮影された紗那国民学校。校庭では日本とソ連の子供たちが遊んでいる(写真集「千の島を巡る 1946年のクリル探険」より)
❐青田校長は学生簿代わりに経文の行間に生徒の氏名を書き込み、ソ連の目をかいくぐり持ち帰った
当時、紗那国民学校の校長だった青田武貴さん(故人)は、卒業生の氏名と卒業年次、在校生の氏名を学籍簿代わりにお経の行間にびっちり書き込んで、肌身離さず持ち帰った。お経には「昭和20年8月15日終戦と同時に現地部隊長の指導命令により一切の書類焼却。推定申告により卒業生名簿編纂ここに転記す」とある。
樺太経由の引き揚げの際には、持ち出せるもの限られており、写真や文書などは身体検査で見つかれば没収された。お経であれば、ソ連側の目をくらますことが出来るのではないかと考えたのだった。
図書館が移転したあとの紗那国民学校内部(2016年5月撮影)
日本人が引き揚げた後、ソ連の学校として使用されたほか、建物を区分して消防署、図書館、スポーツセンターとしても使われてきた。ここ数年で、いずれの施設も新築移転となり、現在は空き家状態。島に残る数少ない日本建築が今後どうなるのか心配されている。
2016年5月のビザなし交流で、択捉島の新しい図書館を視察した際、職員に確認したところ「日本時代に学校だったことはもちろん知っています。私たちにとっても子どもの頃に通った学校です。図書館が移転した後については、自動車学校が入る計画があり、建物は維持されると思います」と話していた。
しかし、2018年9月に訪問した際、図書館長から「大きな建物の方は傷みが激しく、危険な状態になっているため早晩取り壊されるのではないか」と説明を受けた。
壁に絵が描かれている建物は早晩取り壊されるのではないかという
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