根室支庁の公文書「千島及離島ソ連軍進駐状況綴」によると、ソ連軍が色丹島に上陸したのは1945年9月1日午前6時55分である。当時の色丹村長・梅原衛氏が斜古丹湾に面した役場に近い橋の上に立ち、軍の桟橋に横付けしたソ連軍艦を確認し、「六時五五分 ソ連船三隻 色丹村斜古丹港に入航す」と打電した。
ソ連軍の色丹島上陸については、ソ連軍から島の日本軍守備隊に事前連絡があった。梅原村長から8月31日午後8時に根室支庁に届いた電報が残っている。「連合軍ソ連軍使、人員不明なるも一両日中には訪(と)うの旨部隊へ申入あり。会見場所は役場なるも吏員は一時退場せしめらるべし。進駐の目的は武装解除の為の由なり」と伝えていた。
併せて、占領された択捉島の状況も伝えている。「一般地方民の生命財産は保証せらる。婦女子の名誉は重ずる。一般地方民は十九時より六時迄は家に在るべきこと。八時より十九時迄は行動の自由を許す。地方警備は(日本軍の)憲兵が行う」。
小泉秀吉氏からの聞き取り調書
色丹島の有力者で、ソ連軍上陸直後の9月7日に脱出してきた小泉秀吉氏の聞き取り記録には「ソ連軍は輸送船(1000トン級)一隻、駆潜艇一隻にて入港。1個大隊約60名、斜古丹に上陸。暁部隊、郵便局、憲兵隊、陸軍病院、役場、漁業会等を占領せり」とある。日本軍守備隊3,800名を武装解除する一方、ソ連兵は「一日、二日は民家へ土足にて侵入し、時計、トランク、万年筆、現金類を奪取せり。三日頃より隊長の注意の為か、全く民家へは立寄る気配なし」と、当時の状況を語った。ソ連兵は島民に対して「北海道は米国の持分だから我々は行かないが、ソ連は将来日本と手を結び米国と戦わなければならぬ時が必ず来る」と、話していた。
機雷敷設艦ギジガ 同型の掃海艇
「千島占領 1945年夏」(スラヴィンスキー著)やサハリン州博物館の資料では、色丹島上陸部隊は樺太・大泊で編成され、1,600トンの機雷敷設艦ギジガと掃海艇T-596の2隻とされている。
上陸を目撃した梅原村長は根室支庁に3隻と報告しているが、小泉氏のように2隻だったと記憶している島民もいて判然としなかったが、色丹島上陸作戦に参加したソ連海軍中尉イーゴル・スミルノフ氏の手記で3隻だったことが分かった。
色丹島に駐屯していた日本兵が描いたソ連軍入港の様子。ハンカチに絵の具で描いたもので、桟橋にはソ連軍の艦船2隻が描かれている
手記によると、「ギジガは430名の兵士のほか馬59頭、3tトラック2両、弾薬・食糧5トンを積載し、T-594とT-596の2隻の掃海艇には各200名の兵士が乗船していた。上陸時、日本軍がどう対応するか分からないため、戦闘の準備をしていたが、先に撃たないよう命じられた。午前5時、色丹島沖に着いたが、地図がなかったので、どこへ向かえばよいのか分からなかった。突然、日本の機帆船が島影から飛び出してきたので、掃海艇T-594が船団を離れて追跡し拘束した。機帆船が出て来た場所へ向かうと、木製の桟橋がある小さいが、快適な湾を発見した。日本人は丘の上に立って私たちの船を見ていた。彼らは撃たなかった」と具体的に記述している。
上陸作戦に参加した艦船が2隻か3隻か、島民の記憶が異なるのは、掃海艇T-594が日本の船を拘束するために船団離れたことが原因ではないかと考えられる。この日本船は色丹漁業会所属の運搬船「第二長栄丸」(45トン)で、軍人や島民を乗せて根室へ向かうため斜古丹港を出港したばかりだった。
この掃海艇2隻は米ソの極秘の合同作戦「プロジェクト・フラ」によってアメリカ海軍からソ連軍に貸与されたもので、アメリカ海軍時代はYMS-139とYMS-216として登録されていた。
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