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北方領土・国後島から45人の島民を脱出させた古丹消郵便局長の秘話

古丹消の伊東郵便局長はソ連軍上陸後、島民45人の集団脱出を指揮。1945年9月18日未明、根室の木材会社が古丹消に野積みしていた原木を持ち出すために差し向けた船に乗って、時化の中を出帆。通常の倍の12時間かかって根室に着いた。島民の郵便貯金保全のため原簿類一切を行李に詰めて持ち出し、根室の原局に引き渡した。
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「魯」から「露」へ ロシアは「はかなく消える」のか「輝く」のか

なぜ「魯」から「露」に変わったのか。明治7年(1874年)7月頃、公使館から魯は魯鈍の熟字であることからこの字を嫌ったと聞く。交際上、先方が喜ばないことは改める方がいいだろうと、それ以降「露」を用いるようになった」(各国国名及地名称呼関係雑件)。
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北方領土のお墓にお参りするということ

北方領土の元島民が故郷の島に渡って先祖を供養する「北方墓参」が中断して5年になる。今、北方領土のお墓にお参りすることの意味を問う
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『舟』を読む
ロシア人が書いた「北方領土–日ソ混住時代」の物語

終戦直後、日本人とソ連人が北方領土で混住した時代、歯舞群島・志発(しぼつ)島で海難事故が起き、箱舟で流されたソ連人の子供たちを命がけで救助した日本人漁師がいた。その実話を基に、混住時代の暮らしぶりを描いたノンフィクション小説。
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幻に終わった「根室と北方四島の地域間交流」構想

根室管内1市4町(北方領土隣接地域と呼ぶ)と北方四島の住民による地域間交流構想とは…。ビザなし交流の枠組みを活用して、海を挟んで隣り合う根室管内と北方四島の住民が毎年、行き来して、行政や経済、教育、文化、スポーツなど様々な分野で交流を深化させ、「顔が見える近所付き合い」の関係を築こうというものだった。
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歌われなかった、もうひとつの「兄弟船」
♬ はるか国後…島におやじもヨー 帰りたいだろうな

鳥羽一郎のデビュー曲にして代表曲でもある「兄弟船」には、歌われなかった、もうひとつの「兄弟船」がある。漁師の兄弟が、帰りたくても帰れない北方領土・国後島へのおやじの思いを綴った歌詞である。
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島民ニ告グ「出来得る限り現地に踏みとどまれ」
根室支庁長は血を吐く思いでつづった

1945年9月下旬、根室支庁の徳永俊夫支庁長は、ソ連軍の侵攻を受けた北方領土の島民に「壮者は出来得る限り現地に踏みとどまる」よう告示した。ガリ版刷りの支庁長告示は復員兵10人が根室から島に運んだ。
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羅漢さんの観音像、見つかる — 択捉島

択捉島で見つかった観音像は、留別にあった法蔵寺の髙橋暁道住職と分かった。高橋住職は1907年に渡島。2年後に法蔵寺を開く。留別では大正から昭和にかけて流感による死者が続出。自身も2人の幼子を亡くした。犠牲者の冥福を祈るため、建立したのが三十三観音像だった。函館の石屋に造らせ船で運び、ドサンコの背に振り分け島内33か所に安置した。
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「猪谷式」靴下を編み継ぐ

北方領土にルーツを持つ著名人と言えば、国後島・古丹消生まれの猪谷千春さんだろう。1956年冬季五輪スキー回転競技の銀メダリストだ。「なぜ国後生まれの若者が」と、調べていくうち、古丹消への移住を決意し、島民にスキーの滑り方や板の削り方、独自開発の靴下の編み方まで惜しみなく教え、島民と心を通わせた父親の六合雄(くにお)さんに惹かれていった。
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1945年9月1日 北方領土・色丹島に赤旗が翻った日

色丹村長は1945年9月1日朝、斜古丹湾に面した役場前の橋から、ソ連軍上陸を見届けた。3隻の艦船からソ連兵が一気に散開し、無線塔を接収し、郵便局、役場、捕鯨場を占拠。斜古丹湾に赤旗が翻った。