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歌われなかった、もうひとつの「兄弟船」
♬ はるか国後…島におやじもヨー 帰りたいだろうな

鳥羽一郎のデビュー曲にして代表曲でもある「兄弟船」には、歌われなかった、もうひとつの「兄弟船」がある。漁師の兄弟が、帰りたくても帰れない北方領土・国後島へのおやじの思いを綴った歌詞である。
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島民ニ告グ「出来得る限り現地に踏みとどまれ」
根室支庁長は血を吐く思いでつづった

1945年9月下旬、根室支庁の徳永俊夫支庁長は、ソ連軍の侵攻を受けた北方領土の島民に「壮者は出来得る限り現地に踏みとどまる」よう告示した。ガリ版刷りの支庁長告示は復員兵10人が根室から島に運んだ。
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羅漢さんの観音像、見つかる — 択捉島

択捉島で見つかった観音像は、留別にあった法蔵寺の髙橋暁道住職と分かった。高橋住職は1907年に渡島。2年後に法蔵寺を開く。留別では大正から昭和にかけて流感による死者が続出。自身も2人の幼子を亡くした。犠牲者の冥福を祈るため、建立したのが三十三観音像だった。函館の石屋に造らせ船で運び、ドサンコの背に振り分け島内33か所に安置した。
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「猪谷式」靴下を編み継ぐ

北方領土にルーツを持つ著名人と言えば、国後島・古丹消生まれの猪谷千春さんだろう。1956年冬季五輪スキー回転競技の銀メダリストだ。「なぜ国後生まれの若者が」と、調べていくうち、古丹消への移住を決意し、島民にスキーの滑り方や板の削り方、独自開発の靴下の編み方まで惜しみなく教え、島民と心を通わせた父親の六合雄(くにお)さんに惹かれていった。
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1945年9月1日 北方領土・色丹島に赤旗が翻った日

色丹村長は1945年9月1日朝、斜古丹湾に面した役場前の橋から、ソ連軍上陸を見届けた。3隻の艦船からソ連兵が一気に散開し、無線塔を接収し、郵便局、役場、捕鯨場を占拠。斜古丹湾に赤旗が翻った。
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国後島で見つかった三角定規の持ち主「タカハシレイコ」さんを知りませんか

【根室】戦前、北方領土・国後島に住んでいた「タカハシレイコ」さんを知りませんか--。四島在住のロシア人が、カタカナでそう名前を刻んだ古い三角定規を保管しており「持ち主に返したい」と希望している。
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北方領土・国後島の「まれびと」

国後島にスキー文化を広めた猪谷六合雄さんは古丹消に2軒の家とゲレンデや大小7つのシャンツェを造り、6年暮らした。長男・千春は冬季五輪日本人初のメダリスト。
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足裏の思い出 北方四島への玄関口・根室波止場の石畳

弁天島に向かって、かまぼこ型に突き出た根室波止場は、人生の様々な事情を抱えた人々が交差した北方四島への玄関口でした。
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択捉島・蘂取、はるかなり。
米国に父を殺され、ソ連に故郷を奪われた少年

1945年7月15日の根室港。北方領土・択捉島に帰るため父と浦河丸に乗り込んだ山本昭平さんは米軍の空襲で父を奪われた。そして8月28日、今度はソ連軍が択捉島に侵攻。故郷を追われた
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人生は「一場の夢」–祖父と母たちの北方領土・国後島からの脱出行  

1945年(昭和20年)9月1日。人生の歯車が突然、逆回りを始める。ソ連軍が古釜布に上陸した。まもなく「千島列島はソ連の領土になった」と布告が出た。祖父は脱出を決意した。