北方領土・択捉島の博物館に展示されているドイツ軍の燃料ドラム缶のなぞ

北方領土遺産
択捉島の博物館に展示されているナチスドイツが使用した200l燃料ドラム缶

北方領土・択捉島の郷土博物館に興味深い展示品がある。ドイツ軍の燃料ドラム缶である。

蓋には1942(製造年)
Kraftstoff 200 l(燃料200リットル)
Feuergefahrlich(可燃性、火気厳禁)
Heer(ドイツ陸軍)と刻印がある。

さて、ドイツ軍の燃料ドラム缶がいったいどのようにして択捉島にたどり着いたのか?

択捉島の地元紙「赤い灯台」が、大祖国戦争の勝利、軍国主義の日本に対する勝利、第二次世界大戦の終結から80周年、そしてプーチン大統領が提唱した「祖国防衛者の年」の2025年に、クリル郷土博物館と共同で「1つの展示品の歴史」と題して博物館に保管されている戦争遺品を通して、重要な歴史的出来事や祖国を守った(今も祖国を守っている)同胞について解説する企画に取り組んでいる。

ドイツ軍の燃料ドラム缶はその企画の中で取り上げられたのだが、記事を読めるのは本紙のみで、ネット版では読めない。

気になったので調べてみると…

択捉島の郷土博物館にある燃料ドラム缶は2019年に、ロシア国防省とロシア地理学会が行っている大規模な探険調査「東の要塞—クリル諸島(千島列島)」に参加した科学者らがレソザヴォーツク市(沿海地方内陸部)から択捉島に持ち込み、博物館に寄贈したものだ。(サハリン・インフォ2019.8.27)

択捉島には、同様のドイツ軍の燃料ドラム缶がもう1つある。博物館の収蔵品ではなく、民間の人が持っている。

なぜ、ドイツ軍の燃料ドラム缶が極東の果ての択捉島にたどり着いたのか。これについては2つの説があるという。

1つ目は地元住民によるもので、第二次大戦中、日本と同盟関係にあったドイツの潜水艦が択捉島に接近して日本軍に燃料を供給していたという。

2つ目の説は、ドラム缶を寄贈した遠征隊の科学者によるもので、ドラム缶はソ連の赤軍兵士によって持ち込まれたというものだ。

たとえば、ケーニヒスベルク(現在のカリーニングラード)では解放後、燃料や潤滑油の容器を含む戦利品が大量に蓄積された。この中に大量のドラム缶があり、それらは勝利者によって利用され、広大な国中に送られていったという。こちらの方が説得力がある。

ローリング・タイヤ・バレル「heimatverein–hoepfingen-de」から
第二次世界大戦中のドイツ軍(ドイツ国防軍、海軍、空軍)は、通常、野外での燃料補給に標準化されたコンテナを使用していた。1 つは 200 リットルのローリング・タイヤ・バレル、もう 1 つは 20 リットルのキャニスターである。

容量 200 リットルのローリング・タイヤ・バレルは標準的なコンテナで、粗雑な積み込みや輸送用に設計されており、補強のため、鋼製の 2 つのリングが採用されている。

このローリング・タイヤ・バレルは、名前の通り、問題なく転がしたり積み重ねたりできる。樽自体は亜鉛メッキの金属板で作られているが、表面コーティングがなく (すぐに剥がれてしまう)、むき出しか塗装が施されている。車両や航空機に燃料を補給するため、またはキャニスターに移送するために、手動の樽用ポンプがねじ込み口が付いている。

樽は鉄道で前線まで輸送され、そこからトラックで補給部隊まで運ばれた。行軍中の戦車や飛行場の航空機には、トラックの樽から直接燃料補給されることが多かった。

戦後も石油会社向けに樽は製造され続け、現在でも使用されている。特に田舎の農場ではディーゼル燃料の供給や雨水タンクとして使われているのをよく見かけるが、だいたいは戦後に製造されたものが多い。

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