【Part 4】リンドバーグ機の「魔空」千島列島上空縦断飛行 窮地を救った落石無線局との交信、ほぼ全記録

北方領土遺産

千島で3度目となる国後島アンノロ沼への不時着水から根室到着まで

1931年8月23日 サケの採卵小屋で晩餐 サケの煮つけとイモの煮物に舌鼓

17:35 リンディ機→落石
リンディ機は午後4時35分頃根室の上空近くまで達し、雲の上を幾度か旋回して晴れ間を待ったが遂に着水出来ず、午後5時35分に至り不時着水した(北海タイムス)

17:35 逓信省発表 リンディ機消息不明
リンディ機は根室付近の霧深き海岸に着水している。けれど何処か地名はわからない(東京日日新聞)

17:35 リンディ機→落石 国後のある湖に不時着水、位置不明
根室は濃霧激しく着水不可能のため国後のある湖に不時着水した。着水した位置は後で知らす(小樽新聞)

17:55 リンディ機→落石 
国後島の湖に無事着水した。24日午前6時に出発することに決定した(東京日日新聞)

17:56 落石→逓信省 
リンディ機より、明朝24日9時に飛ぶ、着水場所が解らないと通信があった(小樽新聞)

18:00 リンディ機→落石 ガソリンは残り1時間分
着水位置はガス晴れて見れば国後島の湖沼に着水している。ガソリンは1時間飛ぶよりない。故に今夜ここに一泊し明朝6時に通信連絡する(釧路新聞)

18:01 リンディ機→落石 今夜はここ一泊、明日朝連絡する
「今夜はここ一泊し、明日24日午前6時から通信連絡する」(小樽新聞)

リンディ機の不時着水箇所についてその後連絡に努めた結果、ようやく国後島東沸村から約1里(約4キロ)を距てる山奥のアンノロ沼に5時35分着水したことが判明した。機体及びリンディ夫妻は無事である(釧路新聞)

国後島の湖は東沸湖の一部アンノロ沼と判明した。同沼は直径2里の沼で東沸村より1里(約4km)山奥にある(東京日日新聞)

難航また難航 国後に三度不時着 東沸に思はぬ珍来客
【落石発電】リンディ機は23日午後2時25分不時着の紗那沼を出発。同5時すぎ根室の上空まで達しながら濃霧の為着水するを得ず、引返して国後島東沸を距(へだて)る約一里のアンノル(アンノロ)沼に着水せるは本紙朝刊一部既報の如くであるが、東沸村は戸数約40戸人口300人足らずの小村とはいへ、郵便局があるので極めて都合がよかった。尚国後島はガス晴れた日は根室より指呼の間に見え、発動機船にて3、4時間よりかからぬ所である。(北海タイムス 昭和6年8月25日)

青年村民警護 安らかな一夜
【千島東沸発電】国後東海岸の濃霧中より突如機体を現して午後4時30分東沸湖水アンノロ沼に不時着水したリンディ機は鮭孵化場下流アンノロ河口左岸30間の勝草(マサリクサ)に機体を繋留した。鮭孵化場の小田部技手は不意の珍客飛来に面喰らい、雑役を東沸に向わしめ此旨急報した。かくて午後6時湖岸の監視小屋にリンディ夫妻を招じ、取敢えず食事を勧めたが生憎言葉が通じない為紙の上に鮭の形を書き示したところリンデイ夫妻は大いに喜び「サンキユウ、サンキユウ」を連発し、米飯と魚の煮たのを盛んに食った。そのうち村人が沢山集まって来る。午後9時半頃リンディ氏は小田部技手の厚意を謝した後、就寝の為沼の飛行機に帰った。アンノロ沼付近には山の親父と称される熊の往行するところとて青年村民等は多数湖畔に焚火し、リンディ機とリンディ大佐夫妻を警護し、大佐は非常に安らけき一夜を明かした。尚東沸郵便局長はリンディ機着と共に吏員を伴いビール、林檎等を現場に運んだのでリンディ大佐は之等の厚意に対し非常に感謝した。(北海タイムス 昭和6年8月25)

東沸の清水虎亀與さんはリンドバーグ夫妻にビールを差し入れ、乾杯して出発を見送った
この湖は「翼よあれがパリの灯だ」といった有名な当時「空の偉人」といわれたリンドバーグ夫妻が愛機を駆って太平洋横断の途中不時着して一泊したアンノロ湖といわれた湖で、当時愛機を岸の柳に繋いで一夜を過した場所で、リンドバーグの柳といわれており、今でもこの柳は健在していることと信じております。
 当日は物凄い濃霧で中の川の牧草畑へ牧草苅に行き、その帰途頂上に爆音をきいたのですが、夕刻になりリンドバーグの飛行機が着水したことを知り、夜に入って暗黒の闇の山中を馬を頼りに熊の住む山中をアンノロに辿り着き、丁度野草苅りの為にアンノロの草小屋に寝泊り中の外崎秀雄君(現在、根室にて造船業健在)と共に語り合い、其の夜は孚化場に職員の中下福太郎氏(親友で故人)を訪ね一泊、翌朝又アンノロに戻り持参のビールをリンドバーグ夫妻と乾杯出発を見送ったことは今でも忘れず脳裏に刻み込まれています。
 根室に待機中の日本中の大新聞社の報道員は大騒ぎで各社、別々に根室で乗船をチャーターして夜明けにかけて東沸へ乗り込んできたのですが、アンノロまでは案内人と乗馬でなければ行けず、而も孚化場からアンノロまでは湿地帯で案内を知る者でなければ勝手に歩けないような処で、折角きても出発に間に会わない新聞社が多く、地団駄をふんでくやしがったようです。確か間に会って写真を撮れたのが日々新聞だったと記憶しております。
 通信に役立った郵便局は東沸郵便局だけで、父が当時の局長だったので泊役場からは助役、職員等が夜中乗馬でかけつけるやら新聞社の通信で局の職員も一睡も出来ない状態で、村をあげての大騒動でした。たしか小田部正君(現在釧路にて健在)も一緒で、三浦小四郎君は翌朝、新聞記者の案内で出発に間に会った筈でした。私と中下さん、小田部君の三名はリンドバーグ夫妻にサインして貰い、大事に持っていたのですが、引揚の際、島へ置いて来て終りになりましたが、故人の中下さんの所には今でもそのサインして貰ったのがある筈ですので、一度訪ねてきいて見たいものと思っております。(『北方領土 國破而無山河 東沸物語』清水虎亀與著より)

「魚と卵」133号(北海道さけ・ますふ化場発行)より

◉リンディ機出発に間に合った東京日日新聞(昭和6年8月24日)
出発の夫妻と本社特派員の会見 何れる根室で–東京で
【国後村東沸村にて前田特派員】23日夕暴風雨のため根室港に着水するに能わず止むなく国後村の山中東沸湖の一部であるアンノロ沼に不時着水し、夜に入り益々吹きつのる嵐の中に不安と焦燥の一夜を明かした、われ等のリンディ夫妻を見舞うべく、記者は暗夜嵐を衝いで現場に急行した。記者は遂に午前7時20分、根室へ向け出発直前のリンディ夫妻に面会し「御無事で結構でした」と本社山本社長の挨拶を重ねて述べたところ、リ氏夫妻はすてへに機上の人であったが、記者に向かって満面に笑を見せ「ありがとう。いまは立ちます。くわしくは根室で、そして東京で…」。21分プロペラ回転、同23分鮮やかに離水、折柄朝日は丘のかなたにのぼり黄金の光は赤い翼に射して実に印象的なシーン。26分いよいよ離水。はじろオタモイの丘に機首を向けて飛び立ったが、やがて一旋回の後、機は根室へとトビ去った。機上よりアン夫人はしきりに手を振って挨拶した。

◉間に合わなかった東京朝日新聞(昭和6年8月25日)
リンディ夫妻が国後島で 島人と手真似の一夜
【国後島東沸入澤特派員】リンデイ機アンノロ沼に不時着水の報に余(特派員)は濱野写真部員とともに23日午後11時半根室出発。風雨を衝いて進み24日午前6時40分国後東沸上陸。直ちに馬を走らせて東沸湖畔に到着した。昨夜からのリンディ夫妻の模様をきくに「リンディ機は23日午後5時30分頃ひどい濃霧の中に東沸湖の西に突然機影を現わし、やがて東の岸から30メートルの点に着水した。リンディは飛行服の胸を広げ、袖をまくりあげて濃霧と戦ったあとを見せていたが、一まず湖水の東岸にいかりを下ろし、アン夫人はその間無電を打っていた。南の岸にある採卵小屋(サケの卵をとる小屋)の人が舟をだし小屋の傍らへ飛行機を引いて来てけい留した。リンディは「サンキュー」を繰返し、直ちに地図をだして根室とか国後とか聞くので、地図で東沸湖をしらせるとアン夫人に教えて直ぐ無電を打たせた。リンディは手真似で空腹なことを示したので小屋へ案内したのが6時30分頃。リンディは小屋の中で魚の絵を書いたので、小屋番は漸くその意味がわかり、サケを煮てやり、更に御飯を見せたら「サンキュー」というので兎に角茶わんに盛ってだすとリンディが二杯、アン夫人が一杯食べた。その外にじゃがいもの煮たのを一皿うまそうに平げ、お茶をがぶがぶ飲み、食べ終わるとアン夫人は「おいしい、有り難う、大層」と日本語でお礼の言葉を述べたのには一同驚かされた。2人とも元気で夫人の方が愛想がよかった。食後リンディ夫妻は臥る真似をし飛行機を指さし、疲れたから飛行機へ帰って寝る旨を伝え、9時頃飛行機の中へ入って寝てしまった。その後東沸から警官が来てリンディ夫妻を呼び起したが、言葉が通ぜず東沸の人が持って行ったビールとりんごをさしだすと「サンキュー」を繰返し、11時頃寝た。その前に手真似で眼をこすり、空を指さし羽ばたきをして「明日晴れたら根室へ飛ぶ」という意味を示した。24日朝6時に起床した夫妻は昨夜のビールを1本ずつ飲み、余ったのを番小屋の人達に分け与え無電で根室と3回打合せをした。一片の雲もなく晴れ上がった青空に非常な元気でやがてエンヂンを回転させ、試運転もそこそこに7時23分、東沸湖南岸より北に向かって滑走しあざやかに離水。東へ大きく旋回して山かげに機影を没した。  

1931年8月24日 午前7時51分「白鳥」の如く着水、数千の町民が歓喜した

06:27 リンディ機→落石 
国後島東沸アンノロ沼に23日夕刻不時着水して一夜を明かしたリンディ機から「あと1時間以内に出発し、根室に向う」と連絡。根室到着後は休養を取り天気良ければ25日に根室出発し、訪日飛行最後のコースである霞ヶ浦へ向かう予定(釧路新聞)

07:23 リンディ機→落石
リンディ機は国後島アンノロ沼を離水して根室に向かった。天候は前日の濃霧全く晴れて絶好の日和である(釧路新聞)

国後島・東沸郵便局発
夫妻は勇躍していよいよ7時20分スタートし、22分波静かなる湖上を滑走、機首をオタムイ岳に向けて鮮やかに離水し、一旋回の後、根室に向け飛び去った(小樽新聞)

7:46 リンディ機→落石
アン夫人から「あと5分間で我々のあこがれていた根室に着水します。ロシアの領海ペトロパブロフスクを離れてたびたびの難航、不時着に対し落石局員は万全を尽くされて我々のために多大のご援助を与えられしことを心から感謝します。今、着水のスタンバイに先ち重ねて感謝します」(釧路新聞)

7:51
リンディ機は午前7時47分、その雄姿を誘導の3機と共に根室上空に現し、悠々旋回して同7時51分、鮮やかに着水した(釧路新聞)

◉北海の霧晴れてリンディ機根室到着
23日夜来の荒天も今朝(24日)4時頃から快晴となり国後島は一望のうちに根室海上に浮かび出て、風速2m絶好の飛行日和である。23日濃霧のため根室上空から引き返し、国後島東沸村アンノロ沼に不時着水したリンディ機は午前6時27分から落石との無線連絡を開始し、午前7時23分不時着水場たるアンノロ沼を出発し、本社の2機に誘導され7時43分根室港上空に機影を現し、大きく旋回し紅煙異岬の先端をかすめて港内東南隅に7時51分着水した。着水したリンディ機の真っ黒な胴体、朱色の翼、銀色のフロートを迎えて、海岸を埋める数千の群衆は一斉に歓呼の叫びをあげ、リンディは手を上げてこれに応えた。(東京朝日新聞)

◉岸壁に押し寄せた町民2万人、万歳叫ぶ
前日の悪天候に引換え朝来快晴無風にて絶好の日和となり「きょうこそはリンディ機の根室入り」なる日を想わしめ全町早くも熱狂す。かかる間に7時30分頃となるや根室牧場から東京朝日のプスモス機2台及びタイムス機は歓迎並びに誘導のため出発し沖合に機影を没し、次いで7時23分、国後島のアンノロ沼を出発の報伝わり商業高女生徒、小学児童の日米国旗を手にしたるを始め町民はひしひしと本町海岸町通から築港事務所までの岸壁に押し寄せその数、実に2万。かくて47分となるや誘導の3機とともにリンドバーグ夫妻を乗せたロックヒード・シリウス機は根室の上空5百㍍の高度で羽翼赤く、胴体黒く、フロート水色に塗られ雄大な機影を現し悠々一旋回した後降下の姿勢となり、あたかも白鳥のそれの如く港口近くの所定の位置に鮮やかに着水。2万の観衆は我を忘れ万歳を叫び、生徒や児童は手に手に日米国旗を振り歓迎の煙花は空中に轟き港内停泊の船舶、町役場のサイレンは一斉に鳴り響き、全く歴史的記録の壮観を呈した。一方安藤町長、田中、早川両航空官、米国大使館代表のスイフト武官を始め各新聞記者その他を乗せた汽艇は直に着水停止したリンドバーグ機に近づき歓迎の挨拶をなすと共に機体を曳航してブイに係留し、同作業の全く終るや夫妻は汽艇にヒラリと移乗す。かくて8時30分リンドバーグ夫妻は数日来にも疲労の色なく飛行服姿のまま二十間坂下の海岸に上陸し、あこがれの根室にその第一歩を強く強く印した。この時またもや万歳の声は嵐の如く吹きまくる。その間を縫うて微笑をもって会釈しつつ二美喜旅館に入った。(釧路新聞)

◉花咲小学校グラウンドで歓迎式、町民4千人集まる
二美喜旅館で連日の疲労を慰したリンドバーグ大佐は背広服に着替え、素晴らしくスマートなスタイルのアン夫人と共に米国大使館武官スイフト大尉と自動車に同乗、午後1時22分町主催の歓迎会である花咲小学校に至る。この日の花咲小学校は今世界の人気を一身に集めている空の英雄を迎えるため、日米国旗を交差し会場の屋外運動場満艦飾施し、全く面目を一新している。来会実に約4千人の多きにのぼり全く文字通り立錐の余地なくわが国歌の君が代に次いで米国国歌の吹奏によって式は始めから安藤町長よりの花輪を始め「婦女会」その他より花輪贈呈あった後、安藤町長歓迎の辞を述べ、これに対しリンドバーグ大佐は、私は本日初めて根室に着きましたが皆様とは数日前から落石無線電信を通じてお話を致しております。殊に落石無線局が私たちの天候不良と不時着水については非常のご援助を与えられたことは深く感謝します。私たちはこの度の太平洋横断に数日を要しましたが、やがて数時間にして横断するの時が来ると信じます、と謝辞を述べ、最後に安藤町長の万歳で閉会根室空前の盛況を呈した。(釧路新聞)

東京朝日新聞8月25日
北海タイムス8月25日

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