択捉島でソ連軍に武装解除され、捕虜となった旧日本兵(サハリン州博物館)
国後島・古釜布湾のソ連軍上陸地点。右下にDC-34、 DC-31とあるのは米軍が貸与した上陸用舟艇で、それぞれどの地点に上陸したかが示されている
国後島の瀬石とみられる浜に上陸するソ連兵(サハリン州博物館)
北海道庁長官引継書(1945年10月27日)によると、北方領土を占領したソ連軍の総数は9,439名となっている。択捉島の留別に600名、ソ連軍の守備隊本部が置かれた国後島の古釜布に8,000名、色丹島に600名、歯舞群島には239名が駐留した。
国後島の泊村では、ソ連軍の上陸を前に、根室支庁国後出張所の荒井辰夫所長ら島の代表が集まり対応を協議した。①終戦のご聖断が下ったので抵抗しないこと ②多数の村民が迎えるとソ連軍の行動を察知していたと嫌疑をかけられる恐れがある ③出迎えせず無視した場合、ソ連軍の感情を刺激することもある
結局、村長はじめ警察署長、営林署長、自治会長、根室支庁国後出張所長、駐屯隊長ら官民の代表だけで出迎えることにした。
ソ連軍は各島に上陸すると、真っ先に通信施設がある郵便局を占拠し、同時に役場、警察署など官公庁を押さえた。ソ連軍の兵士は数人がグループになって、土足で民家に押し入り、銃を突き付けて時計や万年筆、トランク、現金・宝石などを強奪した。ソ連兵はかわるがわるやって来ては、目ぼしいものを漁っていった。5回も6回も押し入られた家もあった。
女性に対する暴行や未遂事件も起きた。このため、女性は顔に墨を塗ったり、髪の毛を短く切って男装するなどして、出来るだけ目立たないようにした。ソ連兵が来ると、女性や子供は屋根裏やムロという地下の貯蔵庫に隠れた。中には、家を離れ、安全な山奥に数日間、女性や子供たちを避難させた家もあった。
荒らされたままの国後島泊村の寺院(1946年)
歯舞群島の多楽島では、凄惨な光景が広がった。ソ連兵が寺社を破壊、略奪する行為が後を絶なかった。ソ連兵によって寺が荒らされ、骨箱に収められていた遺骨を投げ捨て、あたり一面、数百柱の遺骨が散乱し、島民は怒りと先祖への申し訳なさで体を震わせた。択捉島の留別や蘂取では、ソ連兵がパンを焼くため日本人の墓石を炉の代われに使っていた。
古釜布の中心部にあった大きな旅館は、ソ連軍によって接収され、占領軍の本部が置かれた。旅館の玄関にはレーニンとスターリンの畳一枚くらいもある額縁写真が掲げられた。国後島の古釜布の警察の駐在所の前には「ソ連の領土になる島ではないから逃げる必要はない」という張り紙がされた。
❐ソ連軍による射殺事件
1945年9月10日頃、国後島泊村の前の村長沢田喜一郎さんがウエンナイの自宅に押し入ってきたソ連兵に射殺された。畑作業に出ていた夫人が戻った時には、遺体は奥の部屋に運ばれ、発見を遅らせるため様々なもので覆われていた。犯人は逃走したが逮捕され、軍法会議にかけられ銃殺刑となった。
ソ連軍が占拠した色丹島斜古丹の倉庫で、耳の不自由な島民が、ソ連軍の歩哨により射殺された。歩哨が立ち止まるよう指示したが、男性は耳が不自由なため聞こえなかった。
1945年11月下旬、色丹島のケッキョ湾で、一度根室に脱出した島民数名が島に残してきた家財や漁具を取りに戻ったところ、ソ連兵に見つかり、機関銃掃射を受け2名が死亡した。
1945年12月初め、国後島北部の乳呑路に近いノツカ在住の青年2人が、隣りの集落の空き家に残っていた家財道具をとりに行き、ソ連兵に発見された。停止命令を無視して逃げたため射殺された。
1945年12月26日、多楽島に残っていた財産を根室からとりにきた男性4人がソ連兵に見つかり、取り調べを受けた。その夜は島民宅に一泊することになったが、4人は夜が更けるのを待って逃走を図り、船をつけてあった浜に出たところ、再びソ連兵に発見され、1人が自動小銃で射殺された。
1946年7月27日、ソ連軍将校が択捉島紗那村の民家に上がり込み、酒を要求した。子供と一緒に家にいた婦人が断り、将校を外に出そうとしてもみあいになり、婦人は背中を撃たれて死亡した。将校は裁判で懲役7年の刑を受けた。
❐島民の半数が命がけで自力脱出した
ソ連軍の上陸直後から、身の危険と島の将来に不安を覚えた島民たちの脱出が始まった。
歯舞群島(人口5,281人)の場合は、1945年9月20日時点で人口の4割にあたる2,065人が自力で脱出し、最終的に4,500人に上った。根室に近かったことと、ソ連軍は志発島、多楽島に若干駐屯した程度で監視の目も緩やかだったことから、多くの人は少しの間、根室に避難するという感覚だった。
中には、島と根室を何度も往復し、島の家を解体して木材を船で運び、根室でバラックを建てて雨露をしのいだ島民もいた。空襲で市街地の大半を焼かれた根室では、木材は手に入れるのが難しかった。
人口7,364人だった国後島はソ連軍の本部が置かれた古釜布など軍が駐屯した地域からの脱出は難しかったが、根室に近い泊や古丹消、太平洋側の留夜別、東沸などから半分に当たる3,600人が脱出した。色丹島も人口1,038人のうち580人が自力で逃れた。
逆に、根室から離れている択捉島からの脱出者はわずか数人に過ぎない。北方領土の島民1万7,291人のうち自力で脱出した人は合計8,300人前後と推定される。
1945年9月16日、国後島のオホーツク海側にある古丹消の住民を救出するため、飛島木工場所有の第二国産丸が根室港を出港。18日午前1時50分、夜陰に乗じて古丹消の住民45人を乗船させ、無事に根室港に連れ戻った
❐脱出するための船賃は1家族につき2,000円と米2俵が相場だった
脱出はソ連軍の上陸直後から1945年11月までに集中している。それ以降は海が時化て渡航が困難になるためだ。ソ連軍に発見されにくいよう、夜陰に乗じて決行された。自分で発動機船を持っていない島民は、根室と連絡をつけて手配してもらった。傭船料として一家族2,000円と米2俵が相場だった。根室は食糧難で米は貴重だった。
ソ連軍が上陸した直後、国後島から土地や建物の登記簿を持ち出した根室区裁判所の国後島泊出張所の書記をしていた浜清さんは、傭船料として3,000円を私費で払ったが、当時の給料は100円だったと書き残している。
脱出するための船の傭船料が高騰し、その引下げを求める国後島民の報告
1隻の動力船に、魯漕ぎの小舟を数珠つなぎにして脱出するケースもあった
❐脱出途中、遭難が相次いだ
昭和20年9月24日深夜、国後島の島民数十人が15トンの発動機船を1隻を曳き船にして、櫓漕ぎの川崎船15隻を数珠つなぎにして脱出をはかった。海が荒れ出して、各船に家族と家財道具を満載していたこともあり、船は遅々として進まなくなった。曳船の船長はこのままでは根室にたどり着けないと、15隻を切り離す判断をした。9人家族が乗っていた一隻が大波を受けて転覆し、子供5人が犠牲になった。
昭和20年12月、一家20人を乗せた発動機船が時化模様の国後島北部の白糠泊を出港した。強風の時化に遭い、根室港を目前にした弁天島沖で転覆し、17人が命を落とした。
大量脱出を成功させた例もある。歯舞群島の勇留島の住民30世帯155名が10隻の漁船を連ねてソ連占領下最大の脱島を敢行した。昭和21年4月、生活の支えだったコンブ漁が禁止され、食料確保の見込みもなく、生活環境が目に見えて悪化してきたころだった。ソ連軍は国後島古釜布と志発島のカニ缶詰工場を稼働させるため、各戸1人の強制徴用を行ったが、3カ月でわずかな給料がやっと支払われただけだった。
島内に残っていた全戸が集まり、残留か脱出かを議論した。本土に帰っても親せきもなく生活のあてもない8世帯44人を除く30世帯155人が集団脱出に賛同した。島はソ連軍が常駐しておらず、接収された17隻の漁船は自治会長が管理していた。そのうちの10隻に分乗し4月21日の夜、ふるさとの島を後にした。
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