各島を占領したソ連軍は、すぐに軍政を敷き島民に向けて布告を出した。
9月10日ごろに出された国後島古釜布守備隊長命令は「日本はソ連に降伏したため千島列島はソ連の領土となった。日本の人民が司令官の命令に服した場合、ソ連赤軍は総ての援助を与える」との前文に続き、許可事項と禁止事項を列挙している。
・警察、役所は解散し、人民は集落の会長を選挙し、会長は守備隊長の指揮の下に人民を指導すること。
・古釜布人民には工場、漁業、農業、木材業を許可する。
・学校ヘの通学、神社参拝を含め通行時間は午前6時から午後6時まで許可する。
・海岸から3海里以上の航海を禁ずる。
・泊、白糠泊への移動は許可を得ること。
・集会は禁止。ラジオ、無線機、写真機、銃器、刀剣は守備隊長まで提出すること。
・人民は氏名、住所を届け通行証を受けること。
ソ連軍による上陸・占領から1週間ほどたって、歯舞群島の多楽島の漁業者2人がひょっこり根室に姿を現し人々を驚かせた。根室支庁の公文書に「昆布を積荷し、ソ連軍の許可証を受け、(9月)9日正午、根室に入航せり。現地の情勢を聴取せるに住民の生命財産は保障され平穏なり。ソ連軍と住民の間に行動、漁業生産等の細目に亘り協定なり、島民は生産に従事しつつある」と記録されている。
ソ連軍との協定は、多楽島駐屯日本軍の坂草軍医少尉とソ連進駐軍首脳の間で取り交わされたもので、そこには、歯舞群島の多楽島と根室の間で交易が認められていた。「根室多楽間の連絡は東孤松太郎及び上村喜之助の両名の船舶によること。但し右は生産物の搬出及食料物資の移入を主とすることとして承認するもの」とされ、ソ連軍の許可を得て、多楽島でとれたコンブなどの水産物を根室で販売し、根室から食料や生活物資を持ち帰ることが認められていた。
同じ歯舞群島の水晶島の場合は、島民の食糧や冬期間の燃料となる薪炭を根室との取引によって賄うことが許され、本土に進駐している米軍との間で摩擦を生じないように、昭和20年度の水晶島と根室の取引は12月末までとする、協定を結んでいた。
1945年10月22日には、国後島の泊村役場の熊野書記ほか4名が鮭600匹(価額3000円)を積んで根室港に入港した。ソ連軍の航行許可を得たもので、「越年物資の一部として泊地区住民1,200人分の味噌20樽、醤油20樽、マッチ2函、粉乳2函、 酒6斗(価額計1,830円)を積荷し、26日出航の予定なり」という報告がある。
根室支庁の報告書の中に、1枚の名刺が添付されている。「泊漁業協同組合長 雑貨荒物商 向井勇次郎」とあり、村役場職員に同行してきた。また、メモ書きが残されており、そこには渡航許可の条件として「(根室で手に入れた)味噌や酒などの半数はソ連に与えること」と記されている。
1945年11月30日付の北海道新聞によると、向井組合長は11月27日にも根室に来ている。
「千島進駐のソ連軍は根室と物々交換断行の策を決した模様で、国後島泊港からイサミ丸で同地の漁業家向江重次郎(注・向井勇次郎)、泊漁業会主事大上野真一両氏が交渉員となり、二十七日来根、直ちに根室支庁、同警察署その他関係方面を歴訪、物々交換に関し種々交渉を進めた。一行は五日の期限付で十二月一日帰島する。「交易問題はソ連側が乗り気になっており、何とか目鼻をつけてもらわねば」と語った。
国後島からサケ、エビ、干しコマイなどの漁獲物を持ち込み、根室で重油、砂糖、味噌、醤油、酒などと交換する計画を立て、ソ連軍の許可を得たという。
ソ連兵が特に求めたのは酒だった。冬が近づくにつれ本国からの輸送が困難になり、物資の不足は深刻になっていた。特に酒不足は問題で、ソ連兵が工業用のメチルアルコールを飲んで死亡する事故も起きていた。
支庁公文書には、この時、国後島から協議に来た島民に持たせる日本酒をかき集め、持たせた記録が残っている。
当時の新聞には、根室支庁がソ連との物々交換を真剣に検討しているという記事が載っている。支庁は北方領土に備蓄されている米の量は約20万俵と推定し、残留島民が約1万人、武装解除された日本兵約1万人と想定し、1人1日の六合を配給基準とすれば1年5万4,000俵あれば足りると試算。5万俵程度の移入であれば残留島民の食糧を脅かすこともなく、移入可能とみている、と書かれている。それだけ根室側の食料不足も深刻だった。
色丹村の梅原衛村長
向井組合長らが根室に到着した同じ日に、色丹島から梅原衛村長の船も入港していた。梅原村長は、ソ連軍が進めようとしている漁業経営に日本人の協力が必要だったことから、一計を案じ、漁業資材、船の修理、生活物資すべては根室から仕入れる以外、この島が生きていく術はないと説得し、ソ連軍に根室との交易を認めさせた。
渡航許可には3つの条件があった。
①ソ連軍が使用している漁船の舵を修理してくること
②乗員は連帯責任とし全員で戻ってくること
③漁業の心得がある船員を募って連れてくること
梅原村長は、島内に豊富にある日本軍の備蓄米のうち30俵を持参し、食料不足の根室で販売し現金に換えた。根室支庁を訪問し、交易について協議した後、札幌の道庁も訪ねている。
❐交易許可の背景にソ連軍による宣撫と本土からの人材確保の狙いがあった
ソ連軍が交易の許可を出した背景には、ソ連軍の物資不足のほかに、各島で漁業経営や水産加工場を操業させるために、日本人の技術が必要で、脱出した島民を連れ戻す人材確保の狙いもあった。梅原村長が許可された条件の1つに、「漁業の心得がある船員を募って連れてくること」とあるのはそのことを指している。
このため、許可を受けて根室に来た島民は、積極的に新聞の取材を受け、ソ連占領下の暮らしぶりを語った。仕事をすれば十分な賃金がもらえ、配給も充実して、ソ連は島民に善政をしいており何ら問題はない、といった記事が掲載された。
志発島では、父親だけを残して脱出してきた家族が、こうした呼びかけに応じて島に戻ったケースが5件ある。守備隊長が酒を手に入れるために米15~20表を根室に運ぶ許可を出し、3回交易を行ったという島民の証言が残っている。
1946年1月に、ソ連軍の許可を得て、国後島東沸の漁業者が根室に復員していた長男を迎えに船で根室港に到着した。自ら新聞社の支局を訪ね、「脱出した島民が語る島の事情はあまりに悪い面ばかり強調されている。食糧事情は内地より格段によく、正月にはもち米や砂糖、タバコが特別に配給され、仕事も休みでゆっくりお正月を楽しんだ。何の不安もない」と語っている。この場合は、明らかにソ連軍から宣伝活動の役割を与えられ、それを条件に根室への渡航を許可されたものと考えられる。
年が明けて1946年1月、上陸部隊のソ連軍が引き揚げ、国境警備隊が島に入ってくると状況は一変する。梅原村長は3月にスパイ容疑で逮捕された。前年、交易の協議のためソ連軍の許可を得て根室に渡航し、新聞記者に島の様子を語ったことが問題にされた。国境警備隊は日本の新聞記事を示して詰問した。このころ、ソ連軍の許可を得て根室に渡った島民の多くが身柄を拘束され、厳しい取り調べを受けていた。
ソ連軍の許可は、あくまでも各島に駐屯していた現地守備隊が出した許可で、モスクワの公式な許可ではなかったのだった。その後、梅原村長は2度逮捕され、スパイ容疑に反ソ分子の罪状が加えられた。形ばかりの裁判を経て、ついに1948年4月にシベリア送られた。
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