昨年11月28日、札幌市内のホテルで元北海道知事の堀達也さんの聴き取りをまとめた「激動の2922日 道政8年の記憶」(共同文化社)の出版を祝う、ごく内輪の会が開かれた。つい一週間前に89歳の誕生日を迎えた堀さんは、とてもお元気だった。
堀さんとの縁は一本の電話から始まった。ぼくが新聞記者をしていた20代の頃に同僚だった記者から、道庁に入って堀さんの改革を支えてくれないかという、にわかには信じがたい唐突な誘いだった。当時、未曽有の不正経理問題で猛烈な批判を浴びていた道庁には「外部の血」を入れる必要がある、そんな話だった。
30歳で新聞社を辞めた後、ぼくは海外放浪に出た。旅の途中、南米のチリで現地の女性と結婚した。やがて旅の資金が尽きて帰国し、妻子を迎えるため札幌で職を探したが、バブル崩壊の後でなかなか見つからなかった。そんな時、拾ってくれたのが広告会社パブリックセンターの戸沼礼二社長だった。そうした恩があったので、ぼくからは言えなかった。それを察した同僚は、堀さんから直接、戸沼社長に電話をいれるよう計らってくれた。それで、円満に会社を辞し、道庁に入ることになった。ぼくは38歳だった。
「政策広報主査」という新設のポストが用意され、知事の記者会見や取材対応、庁内外で行うあいさつ、講演等の草稿づくりなど広報全般を担当した。堀さんは「ゴーストライター」と言っていたが、ぼくは「スピーチライター」を自負していた。1996年から堀さんが退任するまでの7年間、知事の近くで激動の道政を見ていた。
知事退任から20年たって、北海道新聞夕刊「私のなかの歴史」で堀さんから聴き取りした記事が30回連載された。これを機に堀道政8年の軌跡をオーラル・ヒストリーとして後世に残そうという話になり、ぼくが本づくりを担当することになった。
堀さんは「まあ、遺書みたいなものだな」と言った。そして「目立たぬよう、地味に頼む」と、いかにも堀さんらしい考えを示し、書店販売はしないことになった。ぼくは「堀道政とその時代」と題して、在任期間2922日の出来事を整理し「読む年表」としてまとめ、いくつかの思い出や個人的な堀道政の評価を随想として書いた。
年表にまとめる中で、改めて驚いたことがある。それは自治体外交の取り組みだった。北海道の自治体外交を概観すると、堂垣内尚弘知事は北方圏の国・地域をまとめて国際会議を重ね、北方圏センターを設立するなど北方圏交流に力を注いだ。横路孝弘知事は北方四島交流を含めてサハリン・極東地域との交流の基礎を築いた。その流れを引き継いだ堀さんはとりわけサハリンとの交流に力を入れるとともに、観光客誘致のため東南アジア諸国にウイングを広げ、現在の北海道ブームのきっかけをつくった。
堀さんが当時サハリン州の知事だったファルフトジノフさんと初めて顔を合わせたのは1995年9月、札幌で開かれた北方圏フォーラムだった。以来「北方領土を返還してもらうには、サハリン州と仲良くしなければいけない」との思いで、13回会談した。
堀さんは97年9月、サハリンを初めて公式訪問した。その時の共同声明の中に、サハリン大陸棚石油・天然ガス開発プロジェクトへの道内企業参入に対する協力などと並んで、北方領土で双方の立場を害さない共同経済開発の検討に関する合意が盛り込まれていた。日本の外務省は地方自治体が先行することをこころよく思っていなかっただろうが、翌年11月、日ロ政府間で北方領土での共同経済開発の検討について合意することになる。その時の政府間協議は主権の壁を越えられずとん挫したが、2016年の安倍晋三首相とプーチン大統領の会談で、改めて共同経済活動に取り組むことが合意された。
堀さんとファルフトジノフさんは知事の定期会談の開催でも合意し、98年には5月、8月と会談を重ねて、その年3回目となる11月の会談で北海道とサハリン州の友好提携の調印を行っている。
ファルフトジノフさんは、北方領土問題では対日強行派だったが、堀さんとは妙に馬が合った。1998年5月、サハリンで行われた知事定期会談では、会議の合間にファルフトジノフさんが堀さんをサクラマス釣りに誘った。釣果は2対2で引き分けだったが、その時に「車を用意するから、あなたが生まれた町を訪ねてみませんか」と提案される。
そう、堀さんは樺太からの引揚者だった。北緯50度の国境線にほど近い「新問(にいとい)」(現ノーヴォエ)という町で生まれ、父親は定置網漁、母親は映画館を営んでいた。1945年8月15日の玉音放送を聴いた数日後、ソ連軍の足音が迫る中、一家は緊急疎開で樺太を後にする。堀さんは10歳だった。その時から53年の歳月が流れていた。
新問までは片道2時間はかかる。道路事情の問題もあって逡巡していると、「それならヘリコプターを出します」と言ってくれた。「ロシアのヘリコプターもちょっと怖かった」という堀さんは結局、今日まで生まれ故郷の土を踏むことはなかった。
2000年9月、プーチン大統領が日本を初めて公式訪問した際、迎賓館で行われた森喜朗首相主催の歓迎夕食会にも2人はそろって出席した。森首相が2人の知事を「この会場で最も仲がいい知事同士です」とプーチン大統領に紹介すると、強面の大統領が微笑みを浮かべながら堀さんに握手を求めてきたこともあった。
2001年1月には、ユジノサハリンスクに北海道事務所を開設した。その年3月の定期会談では、堀さんの方から「ファルフトジノフの名前は長すぎる。イーゴリ、タツヤでいいのではないか」と互いにファーストネームで呼び合おうと提案。ファルフトジノフさんも「ハラショー(そりゃいい)」と応じるなど、「隣人」として親交を深めた。
堀さんが退任した次の年の2003年、ファルフトジノフさんは公務のためヘリコプターで千島列島北部のパラムシル島に向かう途中、墜落事故で亡くなってしまう。サハリンでは、今でも命日に追悼の行事が行われている。
堀さんをサハリンとの交流促進に駆り立てたものは何だろう。それをうかがい知るには、時計の針を終戦直後に戻さなければならない。一家が稚内行の貨物船に乗るため大泊(現コルサコフ)に着いた時、父親は樺太に残る決断をした。一家は父親と別れ遠軽町にあった親戚の家に身を寄せた。それから4カ月ほどたった12月のことだった。
「父が紋別に帰ってきたという知らせが届くんです。それで家族みんなで会いに行きました。てっきり逃げて帰ってきたと思ったら、樺太で捕れたサケを売りに来たんだと。樺太には人質がいるから帰らねばならないと言うんです。引き留めましたが、約束を守らないと人質に迷惑がかかると言って聞かない」–。
父親は紋別を出港した後、船が遭難し亡くなってしまう。遺体は紋別の海岸に打ち上げられた。46歳だった。「ソ連の樺太侵攻がなければ父は死なず、私も別の人生があったはずと思ってしまいます。ただ現実として、ロシアと日本は引っ越しができない『隣人』でもあります。二度と不幸な歴史を繰り返さないように、地域間交流としてサハリン・北方四島との交流を推進しました」と堀さんは語っている。
–今年は戦後80年。堀さんの「遺言」として、この言葉を心に刻んでおきたいと思う。
ボストーク60号2025年1月15日発行≪北方領土★隣接地域通信➃≫
