最近、続けざまに「語り部」の依頼があった。1つは、根室市内の小中学校の先生270人を対象にした「戦後80年 北方領土研修会」。会場となった根室市内にある北方四島交流センターのホールが満席になった。ぼくが記憶する限り、北方領土関係の催しで、このホールが満席となったのは2015年に開催した映画「生命の冠」上映会以来のことだった。戦前の国後島でロケを行い、15歳の初々しい原節子が出演した幻の映画だ。
もう1つは、根室市の花咲小学校と富山県黒部市にある生地小学校の6年生がオンラインで交流しながら北方領土について理解を深める授業だった。ともに北方領土の元島民が多く住む地域でもあり、両校は1974年に姉妹校となっていた。もともとは色丹島に暮らす一家がソ連軍侵攻後に体験した過酷な運命を描いたアニメ「ジョバンニの島」を見た後、アニメの主人公ジョバンニこと純平のモデルになった元島民の得能宏さん(91歳)に故郷への思いを語ってもらう予定だったが、急きょ得能さんが参加できなくなったため、代役を頼まれたのだった。
得能さんと言えば、語り部の名手として、つとに知られた存在だ。元島民2世の私には荷が重い役回りで、最初から気が重かった。「ジョバンニの島」を鑑賞した小学6年生に何をどう話そうかとあれこれ悩んだ末に、結局は国後島生まれのぼくの母の体験を語るしかないだろう、と観念した。とは言え「私の母はですねぇ…」とか「…と母は言っていました」では、元島民本人が語るリアルな体験談とは違って、何だか退屈な説明調になりそうだったので、ジョバンニにならって、母を「サッちゃん」と呼ぶことにして物語風に話してみようと思い、演題は「ジョバンニとサッちゃんのものがたり」とした。
色丹島のジョバンニ一家は2年ほどロシアの人たちと混住生活をした後、樺太経由で引き揚げてきた組だが、サッちゃんはいわゆる脱出組だ。終戦時、北方領土に定住していた元島民は1万7,291人とされ、樺太経由の引揚組と脱出組はほぼ半々といわれる。
サッちゃんは国後島の太平洋に面した植古丹という30戸ばかりの小さな集落で生まれた。両親と兄弟姉妹12人家族で、昆布やタラバガニなどを獲って生活していた。父親は留夜別村の村会議員や植内漁業組合の理事を務めていたというから、地域の有力者に違いなく、何不自由ないお嬢さんのような暮らしぶりだった。義務教育の尋常小学校に上がったころ、部屋数が6つもある家を新築。カニを栽割する工場や馬小屋もあった。数頭飼っていた馬の中で、お気に入りは毛並みが良い「あお」という名の馬だった。尋常小学校を終えた子供たちは男子なら家業の昆布漁、女子であれば古釜布にあった缶詰工場に働きに行くのが普通だったが、サッちゃんは高等科に2年通い、卒業後は家事手伝いの気楽な身で、のどかな島でのんびりとした日々を過ごしていた。

運命の歯車が音を立てて逆回転を始めたのは1945年9月1日。古釜布にソ連の軍艦4隻が姿を現した。10キロほどしか離れていないサッちゃんの集落にもソ連が来たという情報はあっという間に伝わった。父親から「ボロを着て裏の山に行きなさい」と言われたサッちゃんは、おにぎりを持って山に隠れた。その年はササが赤い実をつけていた。ササは120年に一度、一斉に開花し実をつけて枯れてしまう。赤い米粒のような実を口にいれると、ほんのり甘かった。何日目だったか、もういいかなと思って家に戻ったところに、ソ連軍の軍艦が前浜に乗り上げ、艦首の口が開いて、そこから戦車のような軍用車両が上陸してきた。土の中から湧いてくる蟻のように、ソ連兵がぞろぞろと上陸し、海岸に張り付くように建っていた家々に押し入り、強奪を始めた。
サッちゃんの家にもマンドリン銃を構えたソ連兵が土足で上がってきて、万年筆や腕時計といった金縁のものを奪って出て行った。ほっとしたのも束の間、馬小屋から怯えたようないななきがした。ソ連兵は去っていなかった。1頭の馬を近くの川に連れて行き、その場で殺して解体していた。遠くから、恐る恐るその様子を見ていたサッちゃんは「大事な馬を…何て野蛮な連中なんだろう」と、身の毛もよだつ恐怖を感じた。
9月の上旬、ソ連軍の古釜布守備隊長は「日本はソ連に降伏し、国後島はソ連の領土になった。命令に従わない者は厳罰に処す」と布告を出した。日に日に島を脱出する家が増えていた。泊村の前村長が物取りに入ったソ連兵に射殺される事件も起きていた。植内漁業組合が主導し近隣の集落で協議を重ねた結果、180世帯が3班に分かれて脱出することになり、サッちゃんの父親が最後の第3班の責任者になった。
1班、2班が無事脱出に成功し、いよいよサッちゃんたちの番だ。持ち船に近所のお年寄りや女性たちを乗せて先に脱出させ、根室で大きな動力船を用船して迎えにくる手はずだった。Xデーは11月3日午後8時。サッちゃんたちは明るいうちに昆布船に積めるだけの家財道具を積んだ。もう1隻には馬の「あお」を乗せた。根室に着いたら馬車追いで暮らしを立てる腹積もりだった。船の積み荷を隠すため上からコンブを載せて偽装したが、ちょうど見回りに来たソ連兵に見つかり、船体に穴を開けられた。ソ連兵が去った後、積み荷を別の昆布船に積み替えた。馬の「あお」はあきらめて裏山に放してやった。夜のとばりが下りたころ、突然「ダダダッ、ダダダッ」という機関銃の発射音が響いた。「ヒューン、ヒューン」と弾丸が空気を切り裂く音を耳元で感じたサッちゃんは、一目散に家に駆け込んだ。兄たちは海に飛び込んだ。ソ連兵は酔っぱらって憂さ晴らしでもしているのか、闇雲に撃ってきた。しばらくして静寂が戻り、家の外に出ると沖に迎え船の灯りが見えた。「ああ、助かった」とサッちゃんは胸をなでおろした。

11月ともなれば千島の海は荒れる。にわかに風が出てきた。沖に停泊している迎え船までは家財道具を積んだ昆布船で行った。家財道具を積み替えて、迎え船が出発したころには横殴りの雨がたたきつけてきた。古釜布沖に差し掛かったところで、船は前後左右に大きく揺れ始め、バランスをとるため、積んでいたカニ網を海中に投棄した。これがまずかった。スクリューに網が絡み、どんどん減速していく。「これでは根室まではもたない」–サッちゃんの父親は引き返す決断をして、避難港になっていた植古丹の北に位置するポントマリの入り江まで戻った。
入り江には、同じように脱出をうかがう船が何隻か、嵐を避けて停泊していた。サッちゃんたちは父親の指示で船を降り、陸に上がって野宿することになった。風と雨と寒さで震えながら、まんじりともしない夜があけると、入り江に船の姿はなかった。この遭難で6人が亡くなった。陸に上がったことで、命拾いしたサッちゃん一家だったが、家財道具の一切は海の藻屑と消えた。サッちゃんは赤いササの実を思い出した。ササの実がなる年は、きっと悪いことが起きると、昔の人は言っていた。一家は別の迎え船に便乗させてもらい、着の身着のままで根室にたどり着いた。
以来、サッちゃんは故郷の島の土を踏んだことがない。島のことを自分から家族に話すこともなかった。何度も故郷を訪ね、ロシア人島民とも交流を続けるジョバンニとは正反対の元島民である。あの時から80年の歳月が流れた。「露助(ロシア人のこと)に鉄砲撃たれて逃げて来たから、あんまりいい思い出がないねぇ」と、サッちゃんはぽつりと言った。島で暮らした幼い日の思い出は、ソ連軍の侵攻という陰惨な記憶に塗り替えられてしまった。今年94歳になったサッちゃんは、最近ガンの告知を受けた。
NPO法人極東研機関誌「ボストーク63号」(2025年10月15日)≪北方領土★隣接地域通信➆≫

