北千島・占守島 日本、ソ連の上陸作戦記念施設の建設に不満表明

千島列島

北クリル諸島(北千島)のシュムシュ島(占守島)に、今夏、クリル上陸作戦(千島列島上陸作戦)を記念した野外軍事史記念施設がオープンする予定となっているが、日本国内では賛否両論の声が上がっている。5月6日の北海道新聞は、2017年以降、日本側は占守島を訪れ、戦没者追悼式や旧日本軍の戦死者の遺骨を捜索することができていない。一方、ロシア側はシュムシュ島での勝利のPRと勝者のイメージを強化しており、このことが歴史の一方的な見方につながるのではないかと懸念されている、と伝えている。

サハリン州政府は、大祖国戦争戦勝80周年を記念し、シュムシュ島(サハリン州北クリル地区)に、1945年8月18日から22日までのクリル上陸作戦を記念する複合施設を建設する計画だ。このプロジェクトは事業期間5年間を予定し、ロシア民族学博物館がサハリン州文化文書省と協力し、段階的に整備が進められる。

最初の段階は2025年夏に開始される。クリル上陸作戦開始当日の8月18日には、島に野外軍事史記念施設が開設される。この記念施設では、日本軍の装備12点を保存し、専用の展示場に設置する予定だ。また、塹壕網や要塞の修復も行われる。同日、島では上陸作戦の軍事史的再現が行われ、トライアスロン大会も開催される。さらに、遺骨や遺品の発掘作業のため捜索隊が派遣される。発見された遺品は仮設パビリオンに展示され、ソ連兵の遺骨は軍事慰霊碑に改葬される。

シュムシュ島に施設を建設するのは、北クリル諸島の観光振興というよりも、国民、特に若者の愛国心育成を目的としていると言える。北海道新聞もこの点について報じ、「5月9日を前に、ロシア政府は、第二次世界大戦末期に千島列島の占守島でソ連軍と日本軍の間で繰り広げられた激戦の記憶を後世に語り継ぐためのプロパガンダを強化している」と付け加えている。

千島列島はクリル諸島の日本名であり、日本の地図では南クリル諸島は「北方領土」という別の名称で呼ばれている。ロシアと日本の領土問題という側面は、北海道新聞の記事の中で繰り返し取り上げられているようだ。

同紙は、日露関係の悪化、そして日本側による占守島における慰霊式典と遺骨捜索の中止を背景に、ロシア側がますます一方的に「日本に不利な」歴史解釈を行っていることを懸念している。

日本側は以下の主張で不満を裏付ける。1945年8月15日、昭和天皇が国営ラジオでポツダム宣言(英国、米国、中国の3国政府が起草)の無条件降伏条項を受諾したと発表したにもかかわらず、8月18日、ソ連軍は当時日本の領土であった千島列島に侵攻した。ロシアの歴史学では1945年8月18日から22日までのクリル諸島上陸作戦として知られるこの軍事行動は、日本では千島列島の防衛、さらには日本帝国全体の防衛と見なされている。

多くの日本の歴史家によると、シュムシュ島は日本がポツダム宣言の条項を受諾した後も抵抗せざるを得なかった。そうでなければ、千島列島を占領したソ連軍は北海道に侵攻していただろうからである。

実際、スターリンが提案した「一般命令第1号」には、「日本軍のソ連軍への降伏地域に北海道の北半分を含める」と明記されていた。しかし、トルーマン米大統領はスターリンのこの提案に同意しなかった。同時に、トルーマン大統領は、ソ連軍によるクリル諸島占領後、中央部の島の一つに航空基地を設置したいと考えていた。しかし、両者の交渉は決裂した。

日ソ戦争(1945年8月~9月)の一環として、クリル諸島上陸作戦は、ソ連の第2極東戦線と太平洋艦隊の部隊によって遂行された。クリル諸島及び南サハリンは、1945年2月4日から11日までのヤルタ会談においてスターリン、チャーチル、ルーズベルトの間で、終ソ連に引き渡すことと引き換えに、ソ連はヨーロッパにおける戦闘終結から2~3か月後に日本との戦争に参戦することで合意した。

第二次世界大戦の最後の攻撃はクリル諸島で行われた。歯舞群島(小クリル列島)の占領は、1945年9月2日から4日にかけて行われた(日本は9月2日に降伏文書に署名した)。ソ連側では約9,000人がこの作戦に参加した。千島列島には約8万人の日本軍が駐留していた。日本側は約600人、ソ連側は約3,000人と双方の死傷者数のデータを挙げ、日本側はそのような犠牲者を出す必要があったのかと問うが、この問いは、より修辞的なものだ。

2025年には、シュムシュ島に大規模な捜索隊が派遣される予定だが、日本側は当然ながら招待されていない。北海道新聞は、捜索中に戦死した日本兵の遺骨や所持品が多数発見される可能性が高いと強調している。これまでに、シュムシュ島では65柱の日本兵の遺骨が発見されている。そのうち3柱は日本の捜索隊によって、62柱はロシアの捜索隊によって発見された。さらに5柱の遺骨(おそらく日本兵の遺骨)は2022年と2023年に発掘され、現在シュムシュ島に保管されている。

以前は、「ロシア捜索運動」のサハリン州支部が発見された遺骨について日本側に連絡していたが、現在では連絡が途絶えていると同紙は伝えている。さらに、2017年以降、日本側はシュムシュ島で追悼式典を開催できていない。それ以前は、1995年と2005年にのみ式典が執り行われた。これは、島へのアクセスが困難だったためだ。日本の公的機関は、シュムシュ島守備隊の捕虜が収容されていたマガダンで、今年の夏に追悼式典を開催する予定だという。(sakh.online 2025/5/7)

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