ヒューン、ヒューンと風を切る弾の音が母の耳にこびりついている。
1945年(昭和20年)11月3日の夜。
一家は根室からの迎え船に乗って脱出する計画だった。
明るいうちに、家財をはしけ船に積み込んだが、ソ連兵に見つかり船体に穴をあけられた。
夜を待って、家財を別の小舟に積み替えていると、銃声が響いた。
ソ連兵がまた現れ、闇雲に発砲していた。母は生きた心地がせず家に逃げ込んだ。
銃声が止んでしばらくして、迎え船の灯りがぼんやり見えた。
宮城出身の祖父は1921年(大正10年)、31歳で国後島へ渡った。
植古丹(ウエンコタン)でコンブ採りから始め、発動機船を持ち、人を使ってカニやタラ、ナマコ漁と手を広げた。
留夜別(るやべつ)村議も務めた。
母が生まれると、家を建てた。家族13人、何不自由ない生活だった。
1945年(昭和20年)9月1日。
人生の歯車が突然、逆回りを始める。
ソ連軍が古釜布に上陸した。
まもなく「千島列島はソ連の領土になった」と布告が出た。
祖父は脱出を決意した。
一家を乗せた船が古釜布沖に差し掛かった頃、天候が急変した。
船の避難地だったポントマリに引き返し、山中で野宿した。
島民を乗せた船が脱出の機会を伺っていたが、この大しけで遭難。
7人が死んだ。
数日後、一家は別の迎え船で脱出した。
一場の夢だったのか–。
祖父はすべてを失った。
根室で捲土重来を期すも息子2人に先立たれ、失意の中、脱出から8年後に他界した。
今年、母は89歳になる。
郷愁とおぞましい記憶の中で、故郷の土を踏めないまま75年の時がたつ。
(北海道新聞2020年1月9日「朝の食卓」)
私は祖父の顔を知りません。母は根室からの迎え船に家財を積み込んだ時には、祖父の肖像画が積まれていたのを記憶していますが、嵐にあって船が遭難し、家財とともに海の藻屑となってしまいました。
恰幅がよく、口ひげを蓄えていた祖父は面倒見もよかったのですが、博打好きが玉に瑕でした。よく花札を使って「とっぱ」をやっていたのを母は記憶しています。
自由訪問で母の生地、国後島の植古丹に行くと、母の同級生や幼馴染の元島民から「あんたのじいさんは議員をやっていたから、運動会で賞品を渡すのが役目で、帳面とかもらったもんだ」と聞かされます。
2019年6月の自由訪問では、生家があった場所を教えてもらいました。母が生まれた後に新築し、部屋数が6つある広い家でした。今は、背の低い木々が浜風に揺れているだけです。目の前の海にはトッカリ岩が頭だけ出して、波に洗われていました。
祖父も母も、あのまま島に暮らしていたら、まったく違った人生を歩んでいたのだろう。
人生は「一場の夢」–。