北方領土・国後島の「まれびと」

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まれびと–。稀人と書く。

外の世界から来て人々に幸福をもたらす霊的な存在、といった意味である。

1929年(昭和4年)の秋、その人は奥さんを伴い、国後島のオホーツク海側にある古丹消にやってきた。

択捉島へ向かう途中、ふらりと立ち寄った寒村。知床連山に沈む夕日と荒々しい岩場の景観、そして温泉に心引かれ、宿の主人の勧めもあって小屋を借りて住み始めた。

「また浪花節語りの夫婦でも来たのか?」と噂した島民たちは、やれマスだ、筋子だと世話を焼き、当の夫婦が魚がさばけないと知ると、切り身にして届けてくれた。

そんな人情も気に入って、移住を決意する。

ないものは自分で創るのが、その人の流儀だった。

山小屋を手始めにスキーのゲレンデや大小7つのシャンツェを造り、雪が積もるとスキーとジャンプに興じた。すべてはスキー技術と用具開発のためだった。

最初に集まって来たのは村の女性と子供たち。スキー板をそろえたまま回転するクリスチャニアを教えると見る間に上達した。そのうち、遠巻きに眺めていた年寄りたちも加わった。

村の素人大工にスキー板の削り方を手ほどきし、山から切ってきた木に、手間賃として焼酎4合を渡すと立派なスキー板ができるように算段した。スキー靴はゴム長を改良し、自ら考案した特製靴下の編み方も伝授した。

噂を聞きつけて、20キロも離れた役場がある泊や山の向こうの東沸から、島民たちの古丹消詣でが始まった。小学校から講習を頼まれると出かけて行き、やがて全校スキー大会が開かれるまでになった。

2年後に男の子が生まれた。千島の春に生まれたので「千春」と名付けられたその子は、2歳からスキーを滑り始め、戦後の1956年冬季五輪で日本人初のメダリストになる。

国後島にスキー文化を広めたその人、猪谷六合雄さんは国後島の「まれびと」だった。

(北海道新聞2020年5月2日「朝の食卓」)

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