島民ニ告グ「出来得る限り現地に踏みとどまれ」
根室支庁長は血を吐く思いでつづった

記事スクラップ帳

(北海道新聞2020/10/2「朝の食卓」)

北海道根室振興局の前身である根室支庁はかつて国の出先機関であり、北方四島の6村を、人事や財政あらゆる面で指揮監督する立場にあった。

1945年8月28日から9月5日にかけて四島がソ連軍に占領されると、各村役場から「ソ連兵金品略奪」「暴行の憂いあり」と緊迫する情勢と合わせ、「逃げるべきか、とどまるべきか」と島民への対処方針を問う支庁長宛て至急電が相次いだ。

切羽詰まった国後島の学校長からは「引き揚げを認められざれば死するを待つのみ」と訴える手紙も届いた。

島の状況は道庁と政府に伝えられたが、支庁に方針が示されることはなかった。

夜陰にまぎれ脱出した島民は、2週間で2千人を超え、根室港の船着き場は行くあてもなく、へたり込む島民であふれはじめた。

当時の支庁長、徳永俊夫氏は米軍による空襲で市街地の8割を焼失した根室町(現根室市)復興の命を受けて、7月末に赴任したばかりの37歳。現場の支庁長として、独断で方針を示す覚悟を決める。

三日三晩寝る間も惜しんで領土関係の資料を読み込み、「島民ニ告グ」を書いた。

占領下の恐怖と不安の中にいる島民に「壮者は出来得る限り現地に踏みとどまり、老幼婦女子は避難せしめられたし」と求めた。9月下旬、ガリ版刷りの支庁長告示を復員兵10人が島に運んだ。

徳永氏は「(固有の領土を)証拠づける意味でも島民は島に踏みとどまるべきだと思った。血を吐く思いでつづった」(読売新聞「もう一つの領土」)と、後に語っている。

あるいは、この人が北方領土問題を強く意識して、行政としての対処方針を示した最初の人かもしれない。

ソ連軍が北方四島に上陸、占領した時の根室支庁長・徳永俊夫さんである。

「島民ニ告グ」という支庁長告示の中で「領土関係は未だ正式決定を見ず、従って壮者は出来得る限り現地に踏止まり一致協力各自の財産を管守し、今暫くの健闘を切望す」と書いた人だ。

徳永支庁長は1945年7月、道庁木船課長から第27代根室支庁長に着任したばかりで、当時37歳だった。7月14日、15日の米軍による空襲で市街地の3分の2を焼失した根室町の再建を担って赴任した。初代民選の田中敏文知事時代、初代出納長を務めた。

1945年8月1日の北海道新聞にこんな記事が載っている。

現地行政 決戦態勢 支庁の人的組織強化

道庁では現地行政機構の徹底強化を図ることになり 三十一日付をもって 四支庁長、本庁四課長との交流人事を始め、総数百二十余名に上る大量の人員を各支庁に転出せしむる異動を発令した。支庁長を書記官級の大物にせんとの構想に基づき、支庁長の入替へが行はれた。しかして今次の主要人事中注目されることは道北東の重要地域となっている根室支庁に気鋭の徳永木船課長を配した。

期待を背負って赴任した若き支庁長は、どんな気持ちでこの告示を書いたのだろう–。

徳永さんの証言として唯一残っているのは、読売新聞北海道支社が1972年に連載した「もう一つの領土」という連載企画の中で語られたものだ。翌年「忍従の海 北方領土の28年」と題して書籍化されている。

北海道庁経済第二部木船課長から根室支庁長を命ぜられ、赴任したのが終戦直前の20年7月31日。根室の町は7月14日の米艦載機の襲来で8割が焦土と化し、住民はどん底の生活をしていた。わたしの任務もまず町の復興で、吹き飛んだ支庁長官舎を建て直すため、30万円を渡されていたが、被災した支庁職員の住宅費に回したほど。そんな状況だったから、8月15日も札幌の本庁(道庁)に救援策のかけ合いにきていた。終戦の玉音放送を聞き、夜行列車で飛んで帰った。アメリカが来るのではないか。いや、ソ連だ|—-町民の間ではこんなうわさがもっぱら。そうこうするうち、8月28日、ついにソ連が択捉島に上陸、南下を続けて9月3日には歯舞群島まで占領してしまった。もしや根室にも—-と不安がったが、根室の町には9月15日からアメリカ軍一個小隊が駐屯するようになった。

敗戦という事態で島の人たちは動揺こそしていたが、ソ聯が進駐してくるまでは、島と根室が自由に往復できたため、それほど深刻なものはなかった。しかし、ソ聯が進駐し、けん銃の威かく発射や金品の略奪がはじまると、島民は恐怖と不安で虚脱状態に陥ってしまった。「逃げるべきか、とどまるべきか」。わたしのもとには、各島の役場などから問い合わせが相次いだ。そのうちに根室港の船入り澗には、深夜の海を脱出してきた島民がひしめき出した。本庁に行政方針を何度問い合わせてもなしのつぶて。毎日が身を切る思い。それならわたしが決断しなければと、考えたのです。

カイロ宣言、ヤルタ協定、ポツダム宣言を、くり返し読み、さらに支庁の倉庫をあさり、千島の歴史書や書類を捜し出しては読んだ。三日三晩寝ませんでした。

ポツダム宣言には、連合軍は自己の利得、国土の拡張は求めない。しかし侵略した土地からは日本を駆逐する、とある。歯舞、色丹は昔から根室管内、国後、択捉は、1855年日露通好条約で得撫島以北をソ連領決めている。それが1875年樺太千島交換条約で樺太と得撫島以北を交換したのだから、国後、択捉は侵略した土地ではなく、もともと日本固有の領土だ。それなら、その足跡を証拠づける意味でも、島民は島に踏みとどまるべきだと思った。あの「島民ニ告グ」は、血を吐く思いでつづり、ガリ版刷りにして特攻船に託したのです。

その告示はソ連占領下の島にどのようにして届けられたのだろうか。

標津郡中標津町に住む白崎厳さん。国後育ちの白崎さんは、国後で11年間も教べんをとったが、当時は根室の青年学校長。復員した教え子たちが、白崎さんのもとによく集まっていた。「島民二告グ」をなんとかして配りたいと、チャンスをうかがっていた徳永さんは白崎さんに相談した。二つ返事で復員兵たちが、特攻的「運び屋」を引き受けてくれた。そして10人が漁師に化けて島に潜入した。

残念ながら、徳永支庁長が島民に宛てたガリ版刷り告示は現存していない。

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