12月に入って、北方領土の元島民の人数が5,000人を割ったというニュースが流れた。
北方領土の元島民、5千人割れ 11月末 返還運動の継承急務(北海道新聞2024/12/7付)
「北方領土の元島民の人数が11月末現在で4998人(速報値)となり、5千人を下回ったことが千島歯舞諸島居住者連盟(千島連盟、札幌)のまとめで分かった。1945年(昭和20年)8月の終戦直後に住んでいた1万7291人の29%となった。(中略)平均年齢も9月末時点で89.0歳に達している。ロシアのウクライナ侵攻の影響で日ロ交渉の再開が見通せない中、返還運動の継承が急務になっている」
北方領土元島民 5000人を下回る(NHK2024/12/10)
「北方領土の元島民の人数が先月末で5,000人を下回り、墓参などで北方領土に行くことができない状態が続く中、元島民の減少や高齢化が進んでいます。北方領土の元島民などでつくる千島歯舞諸島居住者連盟によりますと、元島民の人数は先月末の時点で4,998人となり、5,000人を下回りました。これは、終戦時に北方領土に住んでいた1万7,291人の28.9パーセントにまで減り元島民の平均年齢も先月末時点で89歳と、一段と高齢化が進んでいます」
この記事は、間違いではないが、かといって、正しいのかといえば、そうとも言い難い。
北方四島の元居住者には「元島民(元居住者)」と「新元島民(新元居住者)」という2つの定義があるからだ。誰をもって、何をもって「元島民」と言うかによる。
元島民と新元島民を定義しているのは 昭和36年(1961年)に制定された「北方地域旧漁業権者等に対する特別措置に関する法律」である。戦前の北方領土で漁業権等を有していた漁業者や一般居住者を対象に事業や生活に必要な資金を低利で融通するための法律だ。
制定時は、融資の対象となる元島民を「昭和20年8月15日まで引き続き6カ月以上北方地域(※北方四島のこと)に生活の本拠を有していた一般元居住者」としていた。
この時、定義された元島民とは、昭和20年8月15日時点で、それ以前の6か月以上、四島に定住していた人たちで、終戦時の元島民の人数としてよく使われる「1万7,291人」という数字がこれにあたる。
逆に言うと、昭和20年2月16日から強制退去までに四島で生まれた人は元島民ではなかった。北方四島はソ連軍により9月5日までに占領されたが、昭和23年10月の四島からの最後の引揚が行われるまで、四島では日本人と移住してきたソ連人が一緒に暮らしていた。この「混住時代」に生まれた人たちは元島民には含まれていなかったのである。
これはおかしい、ということになり、平成20年に改正法が施行され、それまでの「昭和20年8月15日まで引き続き6月以上北方地域に生活の本拠を有していた者」という条文に続けて「その者の子であって、同日以前6月未満の期間内に北方地域において出生し、かつ、引き続き同日まで北方地域にいたもの及び同日後北方地域において出生したもの」が追加された。
この時、追加された人たちが「新元島民(新元居住者)」である。令和6年3月末時点で310人おり、この人たちの平均年齢は77.4歳である。
北方四島に定住していた人、そこで生まれた人を元島民と考えれば、法的な元島民と新元島民を合わせたものが正しい元島民の人数だろう。
令和6年3月末時点で、元島民と新元島民を合わせた人数は5,445人おり、11月末時点でも5,000人の大台は維持している。
北海道新聞やNHKが「元島民5000人割れ」と報じたのは、昭和20年8月15日時点で6か月以上四島に定住していた元島民のことだけで、この新元島民310人はカウントされていないのである。
これまでメディア等で元島民の人数や平均年齢が報道される際、元島民だけを取り上げ、新元島民は除外されてきた。
元島民などでつくる千島歯舞諸島居住者連盟の資料では、元島民と新元島民それぞれの人数と平均年齢を併記しているが、その資料を基に報道したり、表記したり、あいさつ等で引用する際、平均年齢がより高く、人数がより少ない、「元島民(元居住者)」だけをカウントしてきた。その方がインパクトがあるし、切迫した状況が伝わりやすいということもあるだろう。
この調子で、元島民の人数だけを取り上げていけば、あと20年もすると、元島民はだれもいなくなってしまう。その時「最後の元島民が亡くなる」というニュースが流れるのだろうか。しかし、平均年齢が10歳若い新元島民はまだまだ健在のはずだ。元島民がゼロになった時、四島で生まれた新元島民はどう扱われるのだうか。どこかの時点で、元島民と新元島民の扱い方をきちんと整理しておいた方が良いと思っている。
新元島民は北方領土で生まれた元島民である。