注)ロシア側の主張をそのまま掲載しています。ご注意願います。
2月7日金曜日、日本は「北方領土の日」を祝った。この日は、政府が返還を目指している「日本の固有領土」を国民が忘れないように、1981年に公式に制定された。主な行事は東京と北海道北東部の根室市で行われる。根室市はクリル諸島(北方領土)が目と鼻の先にある。
「祝賀」の公式部分は、東京で開かれた「北方領土返還を求める全国大会」で行われ、政府や公的機関のメンバー、島民の活動家らが出席した。

産経新聞の報道によると、トランプ米大統領と会談するため現在米国を訪問中の石破茂首相はビデオメッセージで「戦後80年が経過したが、領土問題は未解決であり、残念ながらロシアとの平和条約も締結されていない」と指摘。ビザなし交流の一環として、元島民の訪問再開の重要性を強調し、ロシア側に関係回復を求める意向を示した。
大会はアピールを採択し、領土問題を解決する意向を改めて表明した。石破首相は、日露関係が悪化しているにもかかわらず、北方領土をめぐる領土紛争に終止符を打つロシアとの平和条約締結の道を堅持するという確固たる立場を強調。また、出席者に対し、この問題に世論を巻き込むよう求めた、と産経新聞は伝えている。
この時期、東京の街では、極右組織がストレスを発散する。毎年、この日の状況はほとんど変わらない。日本には極右組織がたくさんある。「北方領土の日」には、彼らは黒のマイクロバスで東京のロシア大使館近くの通りを走り回り、日本の国旗を振る。
彼らの車体には反ロシアの要求と脅迫を記した文字がびっしりと描かれている。拡声器からは「国後を返せ!色丹を返せ!択捉を返せ!歯舞群島を返せ!」という怒声が聞こえてくる。時には「ロシアよ!シベリア抑留で亡くなった日本人について謝罪せよ!ロシアよ!日ソ中立条約違反について謝罪せよ!ロシアよ!北方領土から出て行け!」という声も聞こえてくる。要求はもっと過激なものになることもある。「南樺太と千島列島すべてを返せ!」。大使館への道路は警察によって慎重に封鎖されている。2011年の「北方領土の日」には、東京のロシア大使館に弾丸の入った封筒が送られ、大使館前でロシア国旗が燃やされ、踏みつけられた。
一方、北海道北東部の根室市でも、「北方領土の日」を記念したイベントが開催された。根室は千島列島の南の島々にほど近い国境の町で、1945年から1947年にかけて送還された千島列島(1875年から1945年まで千島列島は日本帝国の一部で、千島と呼ばれていた)の元住民の多くがここに住んでいる。南サハリンと千島列島は第二次世界大戦後、ソ連の管轄下に入っていた。
右翼系メディアの産経新聞によると、今日、約750人の元島民がイベントに参加した。参加者は「北方領土を返せ!」「島への墓参りを再開せよ」などと叫んだが、これは明らかにロシアに向けたものだった。

元島民の平均年齢は現在89歳で、全員が幼い時に帰国した。
産経新聞は、元島民の一人、多楽島(現ポロンスキー島、小クリル列島)出身の工藤繁志さん(85歳)の言葉を引用している。「後継者と団結し、島に復帰できるよう全力を尽くすつもりです」
同紙はまた、後継者の一人である、曽祖母が国後島出身で根室市の18歳の高校生、近藤妃香さんの言葉を引用している。「島の元住民はすでに高齢です。若い世代の代表として、彼らの故郷の島への思いを次の世代に伝えていきます」
島の元住民がビザなし交流(1992年から実施)の一環として南クリル諸島を訪問できたのは2019年が最後だった。2020年以降は、新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより渡航は中止されている。そして2022年には、ロシアと日本の関係が悪化した。東京は国際的な反ロシア制裁に加わった。これを受けて、モスクワは2022年3月に平和条約締結交渉から一方的に撤退した。これにより、クリル諸島と日本の間でビザなし交流を行うことは不可能になった。
こうした交流が近い将来再開されるかどうか、あるいはいつ再開されるかは大きな疑問である。最も苦しんでいるのは、島に親族の墓がある南クリル諸島の元住民たちだ。結局のところ、時間は尽きつつある。人間の感情、さらには命までもが、権力者の政治的野心のために犠牲にされているのだ。

ロシアと日本の間では、択捉島、国後島、小クリル列島(色丹島、歯舞群島)をめぐる領土紛争が70年以上続いている。1855年2月7日(「北方領土の日」の由来)に、両国は貿易と国境に関する下田条約に調印し、ウルップ島以南のクリル諸島の島々は日本に譲渡された。ウルプ島以北のクリル諸島の残りの部分はロシア領のままで、サハリン島は両帝国の共同所有のままだった。
1875 年 5 月 7 日のサンクトペテルブルク平和条約により、ロシア領となったサハリン島全体と引き換えに、千島列島全体が日本に譲渡された。
1904 年から 1905 年にかけての日露戦争の結果、サハリンの南半分が日本に譲渡され、千島列島は日本領のままとなりました。1945 年の第二次世界大戦での敗戦により、日本は南サハリンと千島列島を失い、ソ連に譲渡されてサハリン州の一部となりました。
同時に、ソ連と日本の間の平和条約は未締結のままだった。条約締結の条件として、日本は1855年の下田条約のときと同様に南クリル諸島の返還を要求した。しかし、モスクワは交渉プロセスから撤退した。(sakh.online 2025/2/8)