北方領土・色丹島地震から30年

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7,700人(2,500世帯)が家を失い、人口は半減した… 

崩壊した色丹島の道路。国後島郷土博物館のコレクションより

30年前の1994年10月5日未明、色丹島で壊滅的な地震と津波が発生した。(※日本では北海道東方沖地震と呼んでいる)震源地は色丹島から南東に120km離れた場所でマグニチュードは8.3だった。震度は国後島と択捉島で8~9ポイント、色丹島で9ポイントだった。津波の高さは色丹島で10m、国後島で5~6mに達した。

地震の最初の揺れは10月5日午前零時23分に発生した。揺れは71秒間続いた。択捉島のゴリャチエ・クリュチ村(瀬石温泉)の軍病院が倒壊し、同島で8人、色丹島では3人が死亡した。最も被害が大きかったのは、地震多発地帯の建設要件を考慮せずに建てられた、レンガとコンクリートブロックの比較的新しい木造住宅だった。耐震性を考慮に入れて建てられたパネルや木造の建物は被害が少なかった。

余震は翌週まで続いた。人々は家に戻ることを恐れ、車やテントの中で夜を過ごした。

この地震によって色丹島は丸ごと約0.6mも海に沈み、島内の多くの地域で地割れ、地滑り、崩壊が発生した。被災地には22,400人が住んでいた。377棟の住宅が全壊または一部損壊した。7,700人(2,500世帯)が家を失った。色丹島の6つの水産工場のうち、復旧したのは2つだけだった。小型漁船、運搬船、大型船(150m)が海岸に打ち上げられた。石油タンクは波によって200~250mの距離を運ばれた。クラボザボツコエ(穴澗)では、破壊されたタンクから約1,000トンの石油が湾に流出し環境を悪化させた。

この地震の後、南クリル地区の人口は半減した。人々は地震による恐怖と苦難を再び経験したくないと思い、島を去った。(Shikotan telegraph 2024/10/5)

津波によりユジノクリリスク(古釜布)の桟橋に打ち上げられた漁船。国後島郷土博物館のコレクションより

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