1946年4月11日、日本の統治は廃止され、代わりに民政署が設立され、その地区センターは古釜布村に置かれた。最初の民政局には元赤軍将校が参加し、彼らは財務、保健、公教育、予算・税務、農業、文化、公共事業、そして総務局の各部を率いた。レヴォン・バブカディヤ大尉が南クリル地区の民政署長に任命された。5か月後、バブカディヤ大尉に代わって民政署長に任命されたA.S.ラプテフは1946年9月にサハリン州指導部に次のように報告した。「南クリル地域では、9つの大きな島のうち5つに人が居住していた。以前から存在していた125の集落のうち43集落に人が居住し、82の村は放棄された日本人住民はいなくなった。1945年8月までに、日本軍は択捉島を含む島々に1万9,000人の住民を擁していた。その中には、缶詰工場、寒天工場、ヨウ素(※ヨードカリ工場で働くために近隣の北海道から千島列島にやってきた季節労働者(中国人や朝鮮人を含む)も含まれていた。

1946年9月時点で、南クリル地区には1,386人のソ連国民(ロシア人、ウクライナ人、タタール人、ベラルーシ人、ユダヤ人、チュヴァシ人、モルドヴィン人)と4,346人の日本人が登録されていた。彼らは島を離れることができなかったか、あるいは離れる意思がなかった。(当時、日本人を本国に送還する話はなかった)
この地区で最も人口密度が高かったのは、南クリル湾沿岸に位置するユジノクリリスク(古釜布)だった。地区の中心地には、ソ連人662人と日本人1,017人が居住していた。漁業と林業が主要産業で、国後島では硫黄と黄土も産出されていた。
ティノミノティ(※乳呑路)行政村(後のティアチンスキー村議会)には、ロシア人140人と日本人949人が居住していた。ヨウ素工場5軒、製材所2軒、そして銅と金の鉱山が操業していた。

シコタン島行政村には、ロシア人189人と日本人509人が居住していた。ヨウ素工場2軒と、月産800トンの鯨肉を生産する捕鯨工場1軒があった。
1946年末までに、この地区にはロシア語学校7校と日本語学校17校があった。ソ連の生徒343名と日本の生徒834名が学んでいた。歯舞群島のゼレョ―ヌイ島(※志発島)には、ソ連人520名と日本人850名が居住していた。戦後も同島では缶詰工場が操業を続け、1946年末には500グラム入りのカニ缶詰を製造していた。集団農場や養魚工場では、通常業務に加えて、木材を伐採し、梁、板、木枠に加工していた。地元産の木材は、クンガ(木造家屋)、塩蔵タンク、住宅、工業施設、社会福祉施設の建設に使用された。
南クリル地区の立法府は、1947年6月13日、南クリル地区人民代議員評議会執行委員会の第1回会合において設立された。

生産組織に加え、文化と宣伝活動も重要な位置を占めていた。 1946年半ば、国後島に最初の図書館が開館したが、蔵書数はわずかだった。地方民政署はすべての民間文化・娯楽事業を国有化し、映画館やコミュニティセンターに移管した。地方に映画映写局(Glavkinoprokat)の支部が開設され、1946年には25の映写施設が稼働していた。そのうち2つは国後島と色丹島にあった。1946年7月20日現在、サハリン映画配給センターには、ソ連の長編映画60本と日本の長編映画180本が保管されていた。上映前には、ソ連映画の日本語版あらすじが日本国民向けに作成された。地方文化局は移動式の映画トレーラーを運営していた。映写技師は映写機材とフィルムバンクを携えて海路で国後島と色丹島の集落を交互に訪れ、ニュース映画や長編映画を上映していた。
ロシア連邦社会主義共和国最高評議会幹部会
サハリン州南クリル地区における村議会及び労働者集落の設立について
ソ連社会主義共和国連邦最高会議幹部会議長 I. ヴラソフ
ロシア社会主義共和国連邦最高会議幹部会書記 P. バフムロフ
1947年10月15日、モスクワ、ファイル番号。614/7
国家予算機関「サハリン州国立歴史文書館」
1. ゴロブニンスキー村議会–ゴロブニノ村(旧泊)を拠点とする。
2. セルノヴォツク村議会–セルノヴォツク村(旧東沸)を拠点とする。
3. チャチンスキー村議会–チャチノ村(旧乳呑路)を拠点とする。
4. マロクリリスキー村議会–マロクリリスコエ村(旧色丹島斜古丹)を拠点とする。
5. ゼレノフスキー村議会–小クリル列島ゼリョーヌイ島ゼレノフスク村(旧志発島相泊)を拠点とする。 (kurinews.ru 2025/12/2)


