真珠湾奇襲からわずか7カ月後に、なぜ択捉島沿岸で民間の貨客船や漁船がアメリカの潜水艦による攻撃を受けたのか。
日本海軍機動部隊による真珠湾奇襲攻撃から数時間後、米海軍の作戦部長は「日本に対し無制限航空機及び潜水艦戦を遂行せよ」という命令電報を発信した。「無制限潜水艦戦」とは、日本の海上補給路を断つために、軍民を問わず日本に関係すると思われるすべての艦艇・船舶に対して、潜水艦が無警告で攻撃するというものだ。
この命令を受けて1941年12月11日から14日にかけて、USSガジョン、ポラック、プランジャーが出撃し、日本の九州沿岸、紀伊水道、本州近海で輸送船などを攻撃し、沈めた。
USSナーワルは、1942年7月の3回目の哨戒作戦で、択捉島の沿岸に進出し、貨客船や漁船、輸送船など民間の船舶を攻撃し6隻を沈没させるとともに、留別や天寧など陸上も砲撃した。択捉島は日本の「内地」とすれば、日本本土への艦砲射撃としては太平洋戦争で初めてのことかもしれない。

USS NARWHAL (SS-167) navsource参照
就役:1930年5月
全長113m、全幅10.1m
排水量:2,730トン(浮上時)、3,960トン(潜航時)
速力:浮上時17ノット、潜航時8ノット
深度制限 300フィート(約91m)
定員:士官8名、下士官80名
武装:艦首21インチ魚雷発射管4基 艦尾21インチ魚雷発射管2基 上部21インチ魚雷発射管4基、魚雷24 本
53口径6インチ砲2門、7.62mm機銃2門
推進装置:ディーゼルエンジン、双発プロペラ、3175馬力
燃料搭載量:182,778ガロン
ウェスティングハウスエレクトリック社製
≪戦闘状況時系列表≫
米海軍潜水艦ナーワル「第四次戦況報告書」(黒文字表記)と「大湊防備隊戦時日誌」(青文字表記)等より作成
【1942年7月】
8日~13日 本艦はミッドウェー島沖航行中6インチ砲と機関銃による昼夜射撃を含む訓練潜水と演習を実施した。視認したのはすべて味方機。
13日 05時56分 本艦はミッドウェー礁に入り、ミッドウェー桟橋南側でUSSフルトン潜水母艦に係留した。ミッドウェーの貯蔵庫から29,015ガロン(10万9833リットル)のディーゼル油を受け取り、軽微な修理を行った。フルトンは要請されたあらゆる支援を提供し、第8飛行隊とフルトンの兵員は非常に協力的で、必要なあらゆるサービスを提供しようと熱心に取り組んでくれた。16時41分、出発。航空支援が確保された。
択捉島に向けて航行
13日~22日 択捉島に向け航行中。両エンジンで2/3速(10ノット)で海上航行。
18日19時40分 霧が立ち込めた。その後は霧の中で航行を継続した。視程は平均して500~2000ヤード(457m~1.8km)。
21日21時00分 暗号チャンネル108の1つのコードとコールサインおよび認証コードを除き、本艦が被災した場合に敵を利するすべての秘密情報を破棄した。今後の作戦の性質上、本艦は敵が哨戒活動を行っている海域で行動することになる。
【7月22日】
ナーワル、ウルップ島南西から択捉海峡を通ってオホーツク海へ入る
12時05分 視程500ヤード(457m)の100ファゾム・カーブで陸地を確認した。
航海士は、12時07分に霧の中、バブル八分儀によって位置を確認することに成功した。本艦がウルップ島のガランザキ(伽藍崎)とヒラサキ(平崎)の間の沖合にいることを示していた。択捉海峡を通ってオホーツク海へ入ることは、ウルップ島の南西を回る100ファゾムカーブを辿ることによって成功した。
※ファゾム・カーブ 海岸線から沖へ向かって水深がどのように変化しているかを示す曲線のこと。等深線ともいう。この曲線は海底地形や波浪、潮汐などの影響によって変化し、船舶の航行や海底資源の探査などに利用される。
ナーワル、択捉島・蘂取錨地に標的見当たらず
20時07分 択捉島の北端にある神威岳(かむいだけ)とその周囲の山々を視認した。
20時34分 海岸線に沿って西へ航行する船舶の白い光と煙を視認した。夜間、神威岳の北方海域は暗転した。水面は驚くほどの燐光を放っていた。2匹の魚が本艦に向かって泳いで来た。燐光を発する航跡が本艦を襲ったため、当直士官は恐怖に襲われた。当直士官(O.O.D)は、本艦が魚雷攻撃を受けるのではないかと確信した。
【7月23日】
03時37分 本艦は蘂取錨地へ直行し、良好な視界でこの入江を偵察したが、何も発見できなかった。潜望鏡深度で海岸沿いに南西方向に進み、約2マイル(3.2km)沖合、100ファゾム曲線のすぐ内側で15分間潜望鏡観測を行った。蘂取錨地を通過した後、海岸線は霧に覆われ、深度計による航行を余儀なくされたが、平均視程は4000ヤード(3.6km)と推定され、沖合に停泊している船舶は視認できると考えられた。午前10時頃の視程は1000ヤード(914m)と推定。視界が改善することを期待して、偵察を続けることが決定された。
ナーワル「素晴らしい眺望」敵の船影なし
13時30分 視界は改善し始めた。
14時15分(位置:緯度45度18分、経度148度12分)には、山頂周辺の濃い霧を除いて、周囲は晴れ渡った。湾内と海岸線全体の素晴らしい眺望が得られた。船舶も小型船も見当たらなかった。新しい建造物や、この湾が係留地として使用されていることを示すビーコン(海岸沿いの灯台)の兆候もなかった。
ナーワル、択捉島の散布半島東4kmで浮上
20時35分 本艦は散布半島の東約2.5マイル(約4㎞)の地点に浮上した。まもなく海岸の2カ所から、住民が調理していると思われる火が見えた。
21時00分 濃い霧に入った。紗那湾沖合に移動するために測深を開始した。
【7月24日】
紗那湾沖4km、一瞬濃霧が晴れたが標的の船舶はいなかった
03時57分 本艦船は霧の中、紗那湾沖2.6マイル(約4.2km)と推定される位置に潜った。この海域を巡視し、天候の回復を待った。
10時35分 霧が晴れ、紗那湾周辺がよく見えるようになった。この海域には船舶も小型船もいなかった。
10時55分 再び霧に包まれ、視界は海に向かって1~2マイル(1.6km~3.2km)となり、岸辺は濃霧に閉ざされた。本艦は潜航しながら留別湾の入り口へ向かった。
ナーワル、留別湾に進入 汽船に接近し魚雷発射
14時30分 霧から抜け出した。留別湾の海岸線と留別村が見えた。湾内には船舶はいなかった。
15時40分 留別湾に停泊中、小型の汽船が湾内へ入港してくるのを目撃した(コンタクト2)。接近を開始。
日本軍の第一報は「敵潜水艦2隻」と発信
15時20分 単冠派遣隊指揮官⇒大警参謀長
敵潜水艦二隻西行し内保湾方面に向かう
敵潜水艦、留別湾西岸を航行中の船舶を砲撃中
16時10分 単冠派遣隊指揮官⇒大警長官
敵潜水艦1隻留別湾西岸能斗路岬航行中の船舶に向け砲撃中
内保湾付近に敵潜水艦 二隻見え現在陸岸に向け進行中
飛行場着陸準備完成、雲高300米
ナーワル、水面に浮上 1発目の魚雷を外す
16時26分 魚雷1発を発射した。目標を外した。速度は推定10ノット(18.5km/h)、目標は実際にはおそらく13~14ノットであった。魚雷の推定航跡位置は、北緯45度092、東経147度394。海面に浮上し、攻撃を行った。
●ナーワルの報告
24日15時40分小型の島間の汽船。高煙突。石炭燃焼式。全長約200フィート。推定トン数1000。灰色塗装。丸旗を掲げ、側面には丸旗が描かれていた。砲撃により沈没。

●日本軍の被害報告
第二日正丸(344トン、全長44.5m、全幅6.7m) 本船は函館市の金森汽船所有の貨客船で北海道本島、国後島、択捉島等の連絡に就航。遭難当時の乗員は船客12名、船員16名。死者及び行方不明者19、負傷4。死者が多かったのは、船体沈没後付近を浮遊中、潜水艦の機関銃掃射を受けたため
16時40分 単冠派遣隊指揮官⇒大警参謀長
1630択捉島西部内保湾方向に再び砲声聞ゆ
16時50分 単冠派遣隊指揮官⇒大警長官
1630砲声未だ止まず。砲台員の一部救助のため急派す

ナーワル「汽船、沈没」「砲弾が留別の村に落下した可能性ある」
17時03分 汽船(注:第二日正丸)は何の抵抗も出来ず、沈没した。乱射や跳弾により砲弾が、留別の村に落下した可能性はあるが、軍事目標は確認されなかったため、町は砲撃されなかった。
ナーワル「別の汽船を追跡、砲撃して沈没させた」
上記の汽船と交戦中、地平線上に2隻目の汽船の煙を確認した。最初の汽船を沈没させた後、本艦は2番目の汽船を追跡し、抵抗を受けることなく追いついて、砲撃し沈没させた。北緯45-0511、東経147-24で、18時33分。
上記の交戦後、択捉島海岸の水上偵察を継続した。視界は良好で、野斗路岬からポロノツ鼻(阿登佐岳の西側)までの海岸線を明瞭に視認できた。船舶の姿はなく、海岸沿いには家屋と先住民の小さな集落のみが観察された。
18時10分 単冠派遣隊指揮官⇒大警長官
内保湾から留別へ向け通過する飛行機爆音を聞けり。詳細調査中
択捉西岸に非常警報発令
18時30分 大警⇒一般船舶、宗防、千防等
非常警報 敵潜水艦択捉西岸
●日本軍の被害報告
18時30分頃、野斗路岬沖245度7浬において「小富士丸」(青森県山本汽船所有、トン数不明)が砲撃を受け沈没。人的被害不明
海防艦「八丈」を現場急派「敵潜水艦を撃滅せよ」
18時40分 大警長官⇒大警部隊軍令部総長等
「第二日正丸」14時15分、択捉留別港付近にて敵潜水艦の攻撃を受く。敵潜水艦は南下しあるものの如し
八丈(※海防艦)は速かに現場に進出、これを撃滅すべし
航空部隊指揮官は準備出来次第水偵三を網走に派遣、捜索攻撃に任ぜしむべし。
残余の部隊は指揮所定めにより警戒を厳にせよ
駆逐艦2隻、択捉島留別沖に急派
18時50分 千防部隊指揮官⇒千防部隊
神風、野風(※いずれも駆逐艦)は直ちに出港。択捉島留別湾付近に進出、敵潜水艦撃滅並びに「第二日正丸」の救援に任ずべし
19時30分 単冠分遣隊指揮官⇒大警長官
17時00分頃、択捉島振別西方10浬にて敵潜水艦のため300トン級の汽船砲撃せられ約10分にて沈没せりとの情報あり。機銃の掃射を受けたるものの如し
ナーワル、小型船2隻に砲撃、炎上させる
19時50分 本艦は小型船を視認した。
20時12分 機関銃で攻撃した。機関銃で目標に火をつけることはできなかった。6インチ砲で2発の砲弾を発射した。小型船の上部が激しく炎上した。
20時15分、最初の小型船と交戦し、約4マイル(約6.4km)離れた2隻目の小型船を発見した。最初の小型船への攻撃完了後、20時45分に2隻目の小型船への攻撃を開始した。再び機関銃掃射が失敗し、目標で火災は発生せず、6インチ砲2発が発射された。最初の6インチ砲弾はブリッジに激しい火災を引き起こした。
●日本軍の被害報告
19時00分頃、野斗路岬229度1浬において「新生丸」(発動機船トン数不明)ほか発動機船2隻(船名及びトン数不明)が砲撃を受け沈没
ナーワル、萌消湾と丹根萌湾を偵察「国後水道」を通過
2つの目標が炎上し、焼失するまで付近に留まった。
夜は視界良好、薄曇りの月明かりが差し込んでいたため、沿岸偵察を継続することが決定された。ポロノツ鼻を周回し、内保湾沖約1.5~2マイル(2.4km~3.2km)を巡航した。この湾は船舶と漁船の停泊地であり、海岸沿いには灯火も火も見られなかった。
萌消湾を南下した。この湾は停泊に適さないとされ、入港はしなかった。丹根萌湾を偵察したが、こちらも船舶は停泊していなかった。水面に出たまま国後水道を通過した。

内保湾、宇多須都湾沖に敵潜水艦2隻現る
21時30分 単冠分遣隊指揮官⇒大警長官
19時00分 内保湾、宇多須都湾沖に潜水艦二隻現る。うち一隻は陸上に向け15発砲撃をなし、沖に向かう間もなく飛行機爆音聞く
21時30分 大警参謀長⇒第二御崎丸艦長
南千島付近海面極めて危険につき直ちに反撃厚岸に避退せよ
大湊警備府「敵潜水艦は2隻と判断」
22時50分 大警参謀長⇒八丈、千防部隊
その後の情報左の如し
1958内保湾2000宇多須都湾、敵潜水艦の砲撃を受く。右より敵潜水艦は二隻なりと判断せらる。
23時00分 大警参謀長
襟裳岬より能取岬に至る北海道沿岸及び千島方面灯台消灯せり
23時20分 八丈艦長
大警機密第464番電に依り敵潜水艦を撃滅せんとす。速力16ノット。濃霧。
23時30分 大警長官⇒八丈艦長、千防指揮官等
千防指揮官は第一駆潜隊一小隊及び一小隊(※原文のまま)を指揮し択捉近海に出現せる敵潜の撃滅に任ずべし
ナーワル、浮上して択捉島単冠湾に向かう
【7月25日】
01時55分 国後水道の半ばを過ぎたあたりで、再び霧が立ち込めた。潜航して択捉島の南東端にある入り江の偵察に向かった。霧のため視界不良、付近では物音も確認されなかった。霧が晴れるのをこれ以上待つのは得策ではないと判断し、18時10分に浮上し、100ファゾムカーブに沿って北東方向へ進み、択捉島・単冠湾沖に向かった。
08時00分 千防指揮官⇒大警長官
駆逐艦「神風」は千島(列島)の西方海面、同「野風」は東方海面を対潜掃討しつつ南下
08時30分 単冠派遣隊指揮官⇒大警長官
敵潜水艦の砲撃による被害、今朝までに判明せる情報を総合判断するに
一、16時05分、留別湾にて第二日正丸沈没。乗組員28名中救助10名
二、17時00分、東線147度27分北緯45度17分の地点にて「小富士丸」沈没。乗組員16名中、救助されたる者4名
三、宇多須都沖にて「新生丸」一隻及び船名不明の船舶二隻火災を起こし沈没せりとの情報ありたるも詳細不明
10時10分 大警参謀長⇒大海空部長
石埼はAOBに於ける敷設任務終了せばなるべく速やかに復帰すること取り計られたい
13時00分 津防指揮官⇒津防部隊
本職、「白神」を率い13時15分、大湊発。本日函館に警泊。明朝発津軽海峡を掃討行動全作戦を指導す
ナーワル、単冠湾沖で漁船を撃沈「6インチ砲8発で粉々」
【7月26日】
単冠湾沖推定3マイル(4.8km)の位置で水面を旋回しながら霧が晴れるのを待った。
08時45分 霧が晴れ大型の漁船を視認した。追跡を開始。 09時45分 砲撃により撃沈した。再び機関銃掃射で漁船に火をつけることはできず、6インチ砲を8発撃ち込んだ後、漁船は完全に粉々に砕け散り、水没した。
●日本軍の被害報告
7月26日10時00分、東経148度19分北緯44度39分において「第三天龍丸」(33トンの発動機船)が砲撃され沈没
留別陸上に砲弾十数発着弾
10時30分 単冠派遣隊指揮官⇒大警参謀長
留別湾調査の結果、十数発陸上に弾着。弾道より判断するに砲弾なること明らか。宇多須都湾調査隊未だ帰還せざるため確報を得ざるも砲弾と思考
10時15分 上記の攻撃中に小型トロール船を発見、追跡を開始した。追跡コースを定めた直後、北方約8マイル(12.8km)の距離から高速で接近してくる駆逐艦を発見した。漁船の攻撃中に発信された遭難信号によって、当該海域に駆け付けたと推定される。
10時18分 潜水。駆逐艦が約7000ヤード(6.4km)に接近するまで監視。爆雷への備えと消音のため潜水を開始した。駆逐艦は音を立てず、スクリューも作動していなかった。聞き耳を立てるために停船したと推定される。
11時00分 大警長官⇒千防指揮官ほか
0900頃、敵潜水艦、天寧の東方20浬付近に出現の報あり。直ちに攻撃し撃滅せよ
13時15分 潜望鏡深度に到達するまで、低速で周囲を警戒しながら沈黙を保った。視界は良好ではなかった。無風状態で、海の表面は鏡のように滑らかだった。奇襲効果は乏しいと考えられ、本艦は油膜を残していたため、駆逐艦への攻撃ではなく回避戦術をとった。沿岸の霧が晴れた場合に備えて潜望鏡深度で単冠湾の偵察を続けた。
13時50分 津防指揮官
0900頃敵潜水艦、天寧の東方20浬付近に出現の報あり
14時30分 大警参謀長⇒千防部隊ほか
味方潜水艦、左記の予定をもって行動す。(いずれも千島北側を通過)
第26潜水隊(61、62)は25日0430国後水道通過、30日早朝片岡湾(※占守島)着
第33潜水隊(呂の63、64、68)は25日、犬吠埼の100度52浬より北上28日朝、択捉海峡通過、30日片岡湾着
14時50分 大警長官
味方潜水艦数隻は27日夕刻及び28日、択捉島を経て列島北側を千島方面に北上す
ナーワル、択捉島太平洋岸を北上し茂世路湾へ向かう
16時12分、艦首方40度方向で高速スクリュー音を感知した。機雷敷設船らしき日本艦は、約5000ヤード(4.6km)の距離を高速で通過した。攻撃するには距離が遠すぎた。当時の視界は約6000~7000ヤード(5.5km~6.4km)で、潜望鏡によれば近づいてくるようには見えなかった。これは残念な出来事だったが、霧の中での成り行き任せの追跡だ。終日、航路が開けず、単冠湾を目視することは不可能だった。
単冠湾がある択捉島南東岸には偵察に値するものが見当たらないため、夜間に茂世路湾方面へ向かうことが決定された。
20時50分 単冠分遣隊指揮官⇒大警長官、千防指揮官
一、天寧の102度24浬にて敵潜水艦の砲撃を受け、天龍丸人員7名中6名、日本水産第一捕鯨丸に救助(内死亡2名負傷2名)1900本隊に収容せり
二、24日西海岸に現れたる敵潜水艦と同一艦と思考す。右潜水艦は陸岸近傍の霧の中より現れ、奇襲せり
ナーワル「択捉島北西岸、南岸で日本軍の哨戒活動なし」
【7月27日】
夜明け、択捉海峡の濃霧の中、潜航した。位置はファソムメーターで推定すると茂世路湾入口から4マイル(6.4km)沖合と推定された。茂世路湾沖の南北線に沿って終日潜航し、霧が晴れて茂世路湾偵察が可能になることを期待した。霧は終日続き、視程は1000ヤード(914m)を超えることはなかった。
浮上後、択捉島の偵察にこれ以上時間を費やさないよう指示された。島全体が霧に包まれていた。北西海岸のすべての湾については目視で確認した。南岸は霧が濃く、敵海軍が活動している可能性があるのは3つの湾のみで、これらの湾の沖合で敵の哨戒活動が行われていなかったことは、主要な海軍部隊が存在しない証拠とみなされた。
07時30分 津防指揮官⇒津防
味方潜水艦数隻、北海道南東海面より27日及び28日、朝択捉島付近を経て北上す
07時40分 単冠分遣隊指揮官⇒大警長官、千防指揮官
第3天龍丸33トンは八戸市小野町佐藤磯作所有。
救助者によれば敵潜水艦は大型艦で砲2門、その他司令塔後部に星条旗
14時50分 大警長官⇒千防指揮官、八丈艦長
2000に至るも敵情を得ざれば指揮官所定配備に依り掃討しつつ神風は錨地、野風は厚岸に於いて燃料補給を実施すべし
14時50分 大警参謀長⇒千防部隊、津防部隊
26日2115米国潜水艦は北緯50度30分東経159度00分付近(誤差稍大)にありて幌筵方向に向かっている。北千島カムチャツカの方面も敵潜水艦に対し警戒の要あり
18時00分 津防指揮官⇒津防部隊
本職、明28日0645白神を率い大湊発、対潜警戒を行いつつ、地球岬、尻矢埼、竜飛、小泊、松前、白神の各防備所並びに特設見張所点検を実施す。
20時09分 単冠分遣隊指揮官⇒大警長官、千防指揮官
2000我の200度方向に大爆発音を聞く
21時30分 単冠分遣隊指揮官⇒大警長官
その後変化なし。振動よりして地震と推定す
【7月28日】
燃料節約のため1つのエンジンを切った。
09時00分 霧が晴れた。位置は東経43.55、経度148.32。本艦は終日、海岸沖約45マイル(7.2km)の地点を南西方向に航行した。航空機は目撃されていない。どうやら日本軍はこの海域で組織的な航空哨戒を実施していないようだ。
28日、敵潜水艦1隻宇多須都湾沖に出現
12時10分 単冠派遣隊指揮官⇒大警長官、八丈艦長、千防指揮官
1200敵潜水艦1隻西北海岸宇多須都湾沖に現る
12時30分 単冠派遣隊指揮官⇒大警長官、千防指揮官、八丈艦長
宇多須都湾の沖にて敵潜水艦の追跡を受けつつあるは「東春丸」300トンと思わる。進路NE快晴なり
14時00分 単冠派遣隊指揮官⇒大警長官、八丈艦長
今朝0800、1000頃本島西岸丹根萌湾にて潜水艦内保湾方面に向け北上せるを認めたる者あり
【7月29日】
本艦の位置は根室の飛行場からわずか40マイル(64km)。日中に潜航して気付かれずにその地域に到達することを決定した。
05時38分 小型船を目撃した。我々の存在が知られないよう注意深く操船した。
17時18分 小型船を目撃した。
19時14分 小型船を目撃した。
20時52分 白い光を目撃した。
21時05分 白い光を目撃した。
択捉島西岸、南千島南方の「対潜非常警報」解除
07時00分 大警部隊
襟裳岬より能取岬に至る北海道沿岸及び千島方面灯台は消灯中のところ本日より復旧す
08時40分 大警
択捉西岸、南千島南方海面対潜非常警報解除
08時40分 大警長官
その後敵情を得ず。駆逐艦「野風」は補給終了後、列島線を掃討しつつ原任務に復帰すべし。航空部隊は現任務を続行。海防艦「八丈」は単冠湾を基地として付近海面の警戒に任ずべし
単冠湾口10kmに敵潜水艦出現、爆雷攻撃を実施
18時20分 単冠派遣隊指揮官⇒大警長官
1820当港口10000mに敵潜水艦現れ、我これを攻撃し撃退す
19時30分 八丈艦長⇒大警長官、千防指揮官、津防指揮官
本職、単冠湾(天寧30度1350m)に投錨後まもなく18時17分、 20度2500mに潜望鏡を認む。直ちに出港。18時37分、爆雷攻撃を行う
効果不明。尚浮上潜水艦、天寧の120度12000米に砲台よりこれを認む(間もなく潜没)我これを制圧中
択捉島南東海面に「対潜非常警報」
20時00分 大警長官⇒千防部隊、八丈、大警航空部隊ほか
1820単冠付近に敵潜水艦出現。野風は急速同方面に進出。八丈艦長の指揮を受け攻撃撃滅せよ。航空部隊はなるべく速やかに捜索し攻撃を実施すべし
20時00分 大警
択捉島南東海面対潜非常警報
22時30分 大警参謀長
本日敵潜水艦単冠に出現せり。戦局の進展に伴い今後この種の策動頻々すべきを予想せらるに付き見張警戒を一層厳にし要地攻撃にに対し遺憾なきを期されたい
ナーワル、襟裳岬南の海上で浮上 5隻の小型船を回避
【7月30日】
00時50分、2つの白い光を目撃した。
01時00分 襟裳崎–アッツ島ラインに沿って南西方向に進んだ。
03時35分 霧が発生した。水面に出で航行を続けた。
05時54分 霧が晴れ始めた。
10時05分 霧は晴れ、本艦の位置は襟裳岬の高地と海岸線の山々の頂上によって決定された。本艦は襟裳崎と釧路ラインの直線上にいた。これは理想的な位置と思われ、この線に沿って南西方向へ哨戒を続けた。日中は船舶とのコンタクトはなかった。襟裳岬の灯台の南で浮上し、襟裳岬から津軽海峡に至る航路に沿って航行した。夜間、灯火をともした5隻の小型船を発見。回避した。航海灯と海岸沿いの灯火が点灯していた。
敵潜は15ミリ砲2門及び13ミリ7.7機関銃を有す
18時00 大警参謀長⇒津防、宗防、千防
択捉に出現せる敵潜は調査によれば15ミリ砲2門及び13ミリ7.7機関銃を有す
【7月31日】
13時46分 2隻のマストを発見した。3000ヤード(2.7km)まで接近。小さな目標だったこともあり、我々の存在を知られないよう、攻撃を控えた。日没時に浮上し、尻矢(屋)崎方面へ向かった。
