南クリル地区80周年に寄せて—
古文書が語る日ソ混住時代「北海道から密入国する日本人をどうすべきか」

北方領土遺産

1946年4月、サハリン州において民政局が設立された後、南クリル諸島(国後島、色丹島、歯舞群島)では、他の11地区と同様に、レヴォン・アナトリエヴィチ・バブハディヤ大尉を長とする国後地区民政署が設立された。以下は、同氏が署名した最初の文書。

決議第1号

国後地区民政署長による、同地区における民政導入に関する声明

1946年4月11日 古釜布集落

1946年2月2日付ソ連人民委員会議決議第263号に基づき:

1. 国後地区民政署が設立された。国後地区には、国後島、色丹島、志発島、勇留島、多楽島、水晶島、秋勇留島およびこれらに隣接する島々が含まれる。

2. 地区の中心地は古釜布集落とする。

3. 1946年4月10日以降、日本の自治は廃止される。

4. 地区に居住するソ連国民および日本人住民、ならびに土地、地下資源、工業企業、公共施設、家畜、船舶などは国後地区民政署に移管される。

決議第1号は、L・A・バブカディヤ大尉によって署名された。

島の開発の始まり

1946年末までに、国後地区には7校のロシア人学校と17校の日本人学校が開校し、343人のソ連生徒と834人の日本人生徒が在籍していた。ソ連政府の呼びかけに応じ、国内各地から労働者が南クリル諸島に次々と到着し始めた。彼らは家族全員で貨車に乗り、家畜や家財道具を携えてウラジオストクへ向かった。そして海上輸送で島に到着したが、もちろん快適な客船ではなく、貨物船だった。彼らは故郷を永遠に離れることを覚悟していた。そして、例えば国後島に到着すると、彼らは日本人が放棄した家々に住み着いた。日本の家は実に質素で、到着した家族全員が暖を取れたのは暖炉(※かまどのことか)のある台所だけだった。しかし、ここの気候は私たちにとって馴染み深いものだったので、凍えるのは冬だけだった。いずれにせよ、遠い国から島々にやって来た大家族にとって、新しい土地での新しい生活は、あらゆる困難からの救いだった。

ソ連全体にとって困難な戦後期であったにもかかわらず、資金と機会が存在していたことは特筆に値する。特に、サハリンとクリル諸島には、ソ連国民と日本人を含む多くの人々のために、米や醤油といった日本特有の食材を考慮した食料が届けられた。

家族の主人たちは到着後すぐに職業に就いた。提供される仕事の選択肢は豊富で、漁業集団はすでに創設されており、魚の缶詰工場、色丹島の捕鯨工場、寒天、硫黄、ヨウ素工場はすでに操業していた。大工や木こりの需要は高く、大規模な建設プロジェクトが開始され、住宅(寮)、工場、漁船、インフラ施設(病院、診療所、学校、幼稚園、クラブなど)の建設が必要だった。

日本人の送還命令

ソ連各地から到着したソ連人も島に残った日本人も、すべて企業で働いた。しかし、1946年11月1日、サハリン州民政局から日本人の送還開始を告げる命令が出された。当初は離散した日本人家族の自発的な意志による送還のみが認められ、サハリンのホルムスク市に5000人規模の移送のための収容所が設けられた。

サハリン州の全地区長に対して以下の命令が下された。日本への出国希望の確認をすること、貯蓄銀行からの貯蓄の引き出しを妨げないこと、一人当たり100kgまでの荷物の持ち出しが許可されること、残りの家財道具(家畜、建物、家具、食料、野菜、燃料)は法令により地方自治体に引き渡されること、送還された日本人が所有するすべての動産および不動産については破壊、損傷、盗難を防止するよう配慮すること。

当初、送還リストには企業の経営者や所有者、役人、従業員、日本に家族がいる人々が含まれていた。その後、農村部の労働者や農民が続いたが、漁業や食品産業に従事する労働者は最後まで残された。

日本人漁師が漁を指導

当時の南クリル地区では「クンガ」と呼ばれるウインチを備えた小型船で、定置網、引き網、底曳き網を使って魚介類が漁獲されていた。漁業集団の漁師たちは、外海に出たり、古釜布湾で、カレイやスケトウダラ、カラフトマスなど季節に応じてあらゆる種類の魚を捕獲した。しかし、島の開発初年度(1946年)、サハリン州執行委員会と全ソ共産党(ボリシェビキ)地方委員会が南クリル地区向けに出した漁業生産計画は失敗に終わった。地区指導部は、この状況から次のように脱却した。新しく設立された漁業集団農場で、日本人との共同沿岸漁業部隊が結成され、その数は膨大だった。当時、国後島の沿岸漁業船団には最大32名が所属していた。なんと、ソ連の漁師一人につき一人の日本人漁師が配属されたのだ。日本人漁師は、ソ連の漁師に地引網の設置方法や網の繕い方、様々な漁法を教えてくれた。こうした地区行政の尽力により、南クリル地区の魚介類採取計画は、1947年に上層部から下された計画を達成した。

ミコヤンが千島を視察

サハリン州成立から最初の3年間は非常に困難な時期だった。軍当局の努力にもかかわらず、1945年9月19日にA.I.ミコヤン、A.M.ヴァシレフスキー元帥、I.S.ユマシェフ提督、V.A.アンドレーエフ中将が南サハリンに到着するまで、サハリンとクリル諸島は事実上無政府状態だった。千島列島の経済は大きく混乱していた。ソ連政府の代表者たちは千島列島を巡回し、サハリンの大規模集落をすべて訪問した。

北海道から千島、サハリンへ、相次ぐ越境事件

多くの不明瞭と矛盾が存在した。当時、日本本土では失業、荒廃、飢餓が蔓延していたため、一部の日本人はサハリンと千島列島に留まることを望んだ。ソ連の南クリル地区では、日本人に仕事が与えられ、賃金が支払われ、食料も配給された。一方、一部の日本人は千島列島を離れ、北海道に脱出した。しかし、逆の大規模な越境事例もあった。日本人家族が北海道からサハリンや千島列島へ小型船で海峡を渡って逃げてきたのだ。この問題に関して、サハリン州の指導部はソ連政府に訴えざるを得なかった。

北海道から逃亡してきた日本人をどう扱うべきか

ソ連人民委員会議副議長殿

A・I・ミコヤン同志(1946年11月)

南サハリンでは、軍人による現地住民への略奪行為が徹底的に鎮圧され、住民への食料供給、労働と報酬の提供、そして1945年から1946年の冬季における米と豆の供給措置が講じられた後、行政機関や経済団体は、日本人住民から妻子や知人を南サハリンへ移送する許可を求める申請を受けるようになった。

例えば、知床村(※旧樺太の知床村か)の村長は、北海道から数百人の日本人を船でサハリンに連れて来るために、民政局に北海道への渡航許可を求める申請を行った。申請書の中で、村長は妻と子どもたちが南サハリンに残ることを強調している。

北海道から南サハリンへの入国許可証は発行していないにもかかわらず、日本人の密入国は今日まで続いている。1946年10月だけでも、北海道から到着した253人が拘留された。北海道から到着した住民のほとんどは、国境警備隊との面会を避けている。

北海道への逃亡者もいる。これらは主に貿易業者、元官僚、投機家である。

以上を踏まえ、北海道から逃亡してきた人々をどのように扱うべきか、明確にしていただきたい。彼らに住居と就労の場を提供すべきか。それとも送還すべきか。

北海道とサハリンへの家族の帰還許可を求める日本人住民からの要請、そして日本人、韓国人、中国人といった個人からの故郷への帰還許可や親族への手紙送付を求める要請にどう対応するか。また、北海道から千島列島へ亡命した人々の証言によると、春には、これまで千島列島と南サハリンで働いていた漁師が千島列島と南サハリンへ戻ろうと計画しているという。

極東軍管区軍事評議会委員(レオノフ)、民政長官(D・クリュコフ)

国家予算局「サハリン州国立歴史文書館」 No. 1093 f. 171, op. 1 unit khr 5, p. l 43.

残念ながら、この書簡への回答は得られなかった。しかし、状況から判断すると、1947年以降、サハリン、千島列島、北海道間の海上輸送はソ連当局によって厳しく管理されていたと考えられる。(kurilnews.ru 2025/6/11)

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