千島列島は、ソ連を対日参戦させるための取引材料だった
ソ連軍による北方領土侵攻と占領の歴史的経過の整理…➀

知られざる歴史・秘話

太平洋戦争は北方領土の択捉島から始まり、歯舞群島で終わった

――太平洋戦争は北方領土の択捉島から始まった。

1941年(昭和16年)12月8日、連合艦隊の機動部隊がハワイの真珠湾を奇襲し、太平洋戦争が始まった。航空母艦など30隻からなる機動部隊が密かに集結し、出撃したのは北方領土の択捉島の太平洋側に面した単冠湾(ひとかっぷわん)だった。

――太平洋戦争は北方領土の歯舞群島で終わった。

1945年(昭和20年)9月2日、東京湾の戦艦ミズーリ艦上で日本が降伏文書に署名したその日、北方領土の占領作戦を遂行していたソ連軍の北太平洋艦隊参謀部は、歯舞群島の占領に向けて行動計画の策定を指令した。

すでに、8月28日には択捉島、9月1日には国後島、色丹島がソ連軍によって占領され、島内の主要な施設には赤旗が翻り、レーニンやスターリンの写真が掲げられていた。

9月3日未明、チェチェリン海軍少佐が率いる8隻の艦隊が国後島の占領部隊第二陣として古釜布に入港していた。歯舞群島の占領のための行動計画策定の指令を受けたチェチェリン海軍少佐は、その日のうちに4隻の上陸部隊を編成して歯舞群島へ向かう。艦船はすべてアメリカ海軍から貸与された掃海艇と上陸用舟艇だった。

そして、歯舞群島は5日までにソ連軍に占領された。

日本の降伏文書署名から3日後、北方領土の島民にとっての戦争は終結した。しかし、それは誰も想像しなかったソ連型社会主義に基づく過酷な占領生活の始まりだった。島の将来に不安を募らせた島民の半数は夜陰に乗じて命がけの脱出を決行した。

さまざまな事情で島に残った半数の島民は、大陸から移住してきたソ連の人々と2年~3年の間一緒に暮らした後、強制退去という形でふるさとの島々を追われた。

太平洋戦争は北方領土の択捉島から始まり、北方領土の歯舞群島で終わった。

そのことは、決して偶然ではなかった。豊かな島々で穏やかに暮らしていた人々が全く知らないところで、この島々はその時々の大国同士の利害調整や駆け引きの材料として扱われていた。

択捉島・単冠湾に海軍機動部隊集結 サーチライトが交差した

北方領土最大の島である択捉島の中央に位置する単冠湾は、太平洋に向かって大きく口を開けている。冬でも流氷が接岸しない湾の北側に年萌(としもえ)、その対岸に天寧(てんねい)があり、2つの集落を合わせても70戸ほどの静かな漁村だった。

1941年(昭和16年)11月下旬、本土から空母や戦艦、駆逐艦が続々と集まってきた。島民はその大きさと数の多さに驚いた。

島にはランプの灯りしかなかった。島民たちは、いつもは漆黒の闇に包まれる湾内から、サーチライトの青白い光が空に向かって幾筋も交差するのを見た。まるで不夜城だった。

軍の命令で箝口令が敷かれ、天寧郵便局はしばらくの間、通信を遮断された。根室と連絡をとり、長い冬を越すために必要な物資を手配することもできなかった。

島民たちはただならぬ気配を感じたものの、何の目的でこれだけの艦隊が、こんな辺鄙な場所に集結したのか、知る由もなかった。

11月26日早朝、艦隊は一隻残らず単冠湾から姿を消していた。

日本がハワイの真珠湾を攻撃し米英に宣戦布告したのは、それから12日後だった。島民たちは、日米開戦のニュースを聞いて、奇襲をかけたのは単冠湾に集結していた艦隊だったと初めて知った。

単冠湾が艦隊の集結地点に選ばれたのは、湾の入り口が10㎞もあり、大艦隊の出入港、停泊に適していたことや居住人口が少なく、情報管理がしやすかったことがある。そして北太平洋を通る大圏航路に位置し、燃料の節約や隠密行動をとるうえでも好都合だったためといわれている。

日本の機動部隊が真珠湾を急襲した翌日、アメリカのルーズベルト大統領は駐米ソ連大使に対日参戦を要請した。それ以降、アメリカはソ連に対し、執拗に日本との戦争に参加するよう求め続ける。

太平洋戦争開戦から4年後、ソ連は対日参戦し、アメリカから貸与された艦船を使用して北方領土に上陸し、占領することになる。

千島列島は、ソ連を日本との戦争に参戦させるための取引材料だった

1941年(昭和16年)4月、日中戦争を戦っていた日本は、ソ連と中立条約を締結する。資源豊富な東南アジアへ進出するために北方の安全を確保する必要があったからだった。

日本は交渉の過程で、より拘束力が強い不可侵条約を望んでいた。これに対し、1940年(昭和15年)11月、ソ連のモロトフ外相はロシアが極東でこうむった南樺太と千島列島の返還を伴わない案なら応じられないとして、逆に中立条約を提案した。

アメリカはこの交渉経過を把握し、ソ連が南樺太と千島列島に強い関心を寄せていることを理解した。

南樺太と千島列島について話し合われた主要な会談を時系列で整理すると以下のようになる。

1940年11月
日ソ不可侵条約締結交渉の過程で、ソ連のモロトフ外相が南樺太と千島列島を要求

1943年10月5日 
ルーズベト大統領が国務省スタッフとの会合で、ソ連の対日参戦を可能にするため、千島列島はソ連に引き渡されるべきだと表明

1943年10月19日~10月30日 
モスクワで開かれた米英ソ3国外相会議でアメリカのハル国務長官がソ連のモロトフ外相に、南樺太と千島列島をソ連領とする見返りに対日参戦を要求

1943年10月30日
モスクワで開かれた米英ソ3国外相会議の晩餐会で、スターリンがハル国務長官に対日参戦の意向を耳打ち

1943年11月28日~12月1日
テヘランで開かれた米英ソ3国首脳会談で、ドイツ降伏後のソ連の対日参戦の方針が決定

1944年10月17日
スターリンがアメリカのハリマン駐ソ大使との会談で、日本との戦争に必要な軍需物資のリストを提示

1944年12月14日
スターリンがハリマン駐ソ大使と会談し、南樺太と千島列島はソ連に返還されるべきであると、初めて表明

スターリンが対日参戦の条件として、初めて南樺太と千島列島を挙げたのは1944年(昭和19年)12月だった。それより前、1943年(昭和18年)10月の段階でルーズベルトは南樺太と千島列島はソ連に引き渡されるべきとの考えを示し、直後に開催されたモスクワ外相会談でソ連に提案している。

南樺太と千島列島のソ連への引き渡しは、スターリンの領土的野心を見透かして、対日参戦の取引材料としてルーズベルトの方から提案していたことになる。

アメリカ国務省文書 『南部千島は、日本によって保持されるべきである

ヤルタ会談を前にした1944年(昭和19年)12月、アメリカ国務省はソ連との交渉を念頭に、千島列島に関して「南部の諸島(北方領土)は日本が保持すべきである」と結論づけたレポートをまとめていた。

クラーク大学の日本研究の第一人者であるブレイクスリー教授に調査を委託してまとめたもので、以下のように勧告している。

 ①南部千島は、日本によって保持されるべきである

 ②北部及び中部千島は国際機構のもとに置き、ソ連を管理国とする

 ③いずれの場合も、北方水域における日本の漁業権保持については配慮する

「千島列島南部の諸島に対するソ連の権利を正当化する要因は、ほとんどない。歴史的にも民族的にも日本のものであり、漁業的価値のある海域をソ連に譲渡することは、将来の日本が受入れ難い事態をつくり出すことになる」

しかし、ルーズベルトがこの報告書に目を通した形跡はない。

報告書作成から70年以上経過しているが、北方領土問題をめぐる今日の状況を的確に予測していた。

ヤルタ会談 北方領土の運命は15分で決まった

そして1945年(昭和20年)2月、ルーズベルト、スターリン、チャーチルの米ソ英の三首脳によるヤルタ会談を迎える。

ヤルタ会談は2月4日から11日まで開かれ、11回の首脳会談がもたれた。その中で、ソ連の対日参戦と千島列島の扱いについて話し合われたのは2月8日、非公式に設けられた米ソ首脳会談においてだった。1992年(平成4年)に日ロ双方の外務省が作成した「日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集」に、その時のやり取りが紹介されている。

極東の軍事問題につき幾つか議論した後、スターリン元帥は、ソ連の対日参戦のための政治的条件について議論したいと述べた。スターリン元帥は、この点につき既にハリマン大使と話してあると述べた。ルーズベルト大統領は、右会談に関する報告は受領しており、自分は終戦に際し樺太の南半分とクリル諸島がロシア側に引渡されることに何の問題もないであろうと思うと述べた。(中略) スターリン元帥は、これらの条件が満たされない場合、自分とモロトフにとり、なぜロシアが対日戦争に参加しなければならないのかソヴィエト国民に説明するのが困難となるのは明らかであると述べた。彼らは、ソ連の存在そのものを脅かしたドイツに対する戦争は明確に理解したが、何ら大きな問題を抱えている訳でもない国を相手になぜロシアが戦争に入るのか理解しないであろう。他方、スターリン元帥は、もし政治的諸条件が満たされれば、国民は右に関わる国益を理解し、かかる決定を最高会議に説明することも格段に容易となろう、と述べた。

スターリンがいう政治的諸条件とは、南樺太と千島列島の領有を含む権益の確保を指していた。会談は、わずか15分で終わり、北方領土の運命が決まった。ヤルタ協定の内容は1946 年(昭和21年)2 月まで秘密にされていた。

「ソ連が対日戦争の助っ人になるなら、千島は小さな問題だ」

ヤルタ協定の草案を書いたのはほかならぬスターリンである。ヤルタ協定2の(a)で樺太南部は「返還されること」とされているのに対し、千島列島の記述は別立ての3として独立させて、「引き渡されること」と表現されている。大西洋憲章、カイロ宣言で領土不拡大を高らかにうたった連合国としての戦争方針と矛盾することを理解していたからである。

さらに、スターリンは、三大国の首脳は日本が敗北した後にソ連の要求が確実に満たされることを合意した、という一文を挿入し、念を押した。

この時の会談に同席していたアメリカの駐ソ大使ハリマンは、千島列島が日露戦争の前1875年(明治8年)に平和裏に結ばれた条約によって日本の領土になったことを理解しており、ルーズベルトに対して千島列島の譲渡を再考するよう進言した。

これに対して、ルーズベルトは「ソ連が対日参戦の助っ人になってくれるという大きな利益に比べれば、千島は小さな問題だ」といって取り合わなかった、と回想録で述べている。

スターリンはなぜ、千島列島を欲しがったのか 

それほどまでして、スターリンが欲しがった千島列島、その意味はどこにあるのか–。日本が降伏文書に署名した1945年9月2日に、スターリンはラジオを通じてソ連国民に呼びかけた。演説の前半では日露戦争で南樺太と千島列島を失い、太平洋へつながる東の出口を塞がれたこと、そして、日本が繰り返し極東に進出してきたことを語った後、スターリンは南樺太と千島列島を領有したことの意味を説いている。

(日本の降伏によって)南樺太と千島列島がソ連にうつり、そして今後はこれがソ連を大洋から切りはなす手段、わが極東に対する日本の攻撃基地としてではなくて、わがソ連邦を太平洋と直接にむすびつける手段、日本の侵略からわが国を防衛する基地として役だつようになる

スターリンは、将来、日本が軍事的に復活することを想定し、ソ連の安全保障を強化する観点から太平洋への出口を確保し、千島列島が日本の攻撃基地ではなく、日本の侵略からソ連を防衛する基地になると意義を語った。

千島列島の安全保障上の価値については、先にふれたブレイクスリー報告書の中でアメリカも分析していた。報告書は、千島列島の安全保障上の重要性をこう指摘していた。

千島列島は日本とソ連の間に連鎖し、防衛及び攻撃双方の基地を提供している結果、両国にとって戦略的に重要である。

千島列島は太平洋からオホーツク海、沿海州地方への接近に対して、軍事的煙幕を形成しているので、ソ連にとって重要である。

千島列島はアリューシャンと日本国間の大圏航路の上に位置しているのでアメリカにとっても重要である。

スターリンの領土的野心の本質は、太平洋への出口を確保し、南樺太、千島列島を太平洋から接近する敵に対して煙幕を形成する砦と位置づけて、ソ連の安全保障をより確実なものにすることにあった。

スターリンが予想した、日本の軍事的復活という見通しは当たらなかったが、戦後の冷戦時代を通じて、そしてソ連からロシアに変わった今もなお、千島列島はアメリカに対する地政学上の煙幕の役割を果たしている。その意味で、アメリカにとっても千島は決して小さな問題ではなかった。

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