日本との戦争にソ連を参戦させるための米ソ合同極秘プロジェクト
ソ連軍による北方領土侵攻と占領の歴史的経過の整理…➁

知られざる歴史・秘話

米ソ極秘作戦「マイルポスト(MILEPOST)」で80万トンの物資を提供

ルーズベルト大統領からの対日参戦の要請に対して、スターリンは日本と戦うために必要な武器弾薬をはじめとした大量の軍需物資を要求し、それを基に2つの米ソ合同の極秘プロジェクトが動き出す。

1944年10月17日、スターリンからアメリカの駐ソ大使ハリマンに、あるリストが示された。日本との戦争に備え、シベリア東部に2カ月分の物資を備蓄するためにソ連がアメリカに要求した物資105万トン分のリストだった。

スターリンは日本との戦争は短期間で終わるとの見通しを立て、2カ月分のリストを作らせていた。

この極秘作戦は「マイルポスト」というコードネームを付され、1945年4月から9月にかけて、食糧・被服から武器・弾薬、重機、機関車両まで80万トン、15億ドル分の物資が中立国であるソ連国旗を掲げた商船によって、アメリカ西海岸からナホトカとウラジオストクへ運ばれた。

ソ連にとって、戦争の準備していることを日本に気づかれないようにすることが何より重要だった。スターリンは準備が整う前に、情報が漏れた場合、日本はウラジオストクを攻撃してくるかもしれないと真剣に恐れていた。

アメリカは、物資を確実かつ安全に輸送するため、千島列島の中のいくつかの島を押さえることを検討したが、こうした動きがかえって日本の疑念を招くとして実行に移されることはなかった。

「プロジェクト・フラ」で米国海軍の艦船149隻がソ連海軍へ移管

1944年12月、ソ連艦隊のアラフソフ参謀長が、アメリカの軍事ミッションとしてモスクワに駐在していたオルセン海軍中将に、ソ連太平洋艦隊を強化するために必要な船舶と物資のリストを提示した。

このリストを基に極秘に進められたのが「プロジェクト・フラ」である。(※文書によっては「フラ・プロジェクト」あるいは単に「フラ-TWO」と表記され場合もある)。

ヤルタ会談直後の1945年2月中旬から9月にかけて、ソ連の対日参戦の準備のため、アメリカのアラスカ州コールド・ベイ基地で実施された米ソ合同の極秘作戦だった。これが北方領土の運命にも大きくかかわってくる。

アメリカはソ連が対日参戦に必要としていた艦船149隻を提供するとともに、ソ連兵1万2,000人に対して最新鋭の艦船や機器の取り扱いに関する習熟訓練を行った。

※これまでリチャード・ラッセル著「プロジェクト・フラ 日本との戦争のための米ソ極秘協力」 の艦船一覧表に基づいて145隻としていたが、米国国立公文書館に残る「HULA-2プロジェクト司令官の報告書」で149隻と明記されていることから、司令官報告書にある数字使用することとした。

「プロジェクト・フラ」は、単に艦船を提供するだけでなく、ソ連兵を米国に連れてきて、実際に操船技術を教えたり、搭載された武器や機器の扱い方を習得する訓練を行ったことだろう。これを提案したのは米国のオルセン海軍中将で、彼は艦船の貸与だけでなく、乗船するソ連兵の訓練をセットにしたプログラムが必要と考えたのだった。

ヤルタ会談では、訓練と引渡し場所がアリューシャン列島のコールド・ベイに決定された。そこには廃止されたアメリカ海軍の基地が残っており、その施設を活用できることや、周辺に居住者が少なく秘密保持の面からも好都合だった。

当初の計画では180隻の艦船をソ連に移送することを目標とし、訓練期間は大型艦船で45日、小型艦船で30日と想定されていた。

ソ連兵のための居住区をはじめ、ラジオ局、映画館、兵士たちからヤンキースタジアムの愛称で呼ばれることになるソフトボール場などインフラも整備された。

4月10日から5間、毎日500人がソ連の商船でコールド・ベイに移送され、16日から最初の訓練が始まった。新型の上陸用舟艇や掃海艇、護衛艦などの艦船の操船、搭載されているレーダーやソナーなどの最新機器の操作を習得するため、ソ連軍将校220人、兵士1,895人が参加した。ソ連兵はレーダーとソナーについてほとんど知識を持っていなかった。

コールド・ベイでは、アメリカ軍スタッフが常時1,500人で対応した。訓練の効果を高めるため、米ソのスタッフが協力してロシア語の操作マニュアルなどを作成した。

初めての引き渡しは1945年5月28日だった。訓練を終了したソ連兵が乗り込んだ掃海艇8隻がコールド・ベイからカムチャッカ半島のペトロパブロフスク海軍基地へ向かった。5月30日に9隻、6月7日に10隻が続いた。

移送コースはアリューシャン列島の北側に沿って島づたいに、途中で補給を受けながら進み、アメリカ海軍の護衛艦がアッツ島北西沖まで護衛し、ペトロパブロフスク海軍基地から迎えに来たソ連の護衛艦に引き継いだ。

こうして7月末までに、計画していた180隻のうち100隻がソ連に移送された。

ソ連が対日参戦した8月9日以降も訓練は続いた。コールド・ベイではソ連側が艦船の早期の引き渡しを迫っていた。アメリカは、訓練期間を短縮してできるだけ多くの艦船を移送することに努めた。

8月25日に3,700人のソ連兵の最後の沿岸訓練が完了し、コールド・ベイで訓練されたソ連兵の総数は将校750人を含め12,000人に上った。

9月2日に東京湾のミズーリ艦上で日本が降伏文書にサインをした日、2隻のフリゲート艦がソ連側に引き渡され、9月4日にも4隻が移管された。

その翌日、ソ連軍は北方領土の占領を完了した。

北方領土への侵攻・占領作戦に米国から移管された艦船11隻が使われた

「HULA-2プロジェクト司令官の報告書」によると、引き渡された艦船は、PF(哨戒フリゲート) 28隻、AM (掃海艇)24隻、YMS (木造の掃海艇)31隻、LCI(L)(大型歩兵揚陸艇) 30隻、SC(木造の駆潜艇)32隻、YR(工作船) 4隻の149隻となっている。

「プロジェクト・フラ 日本との戦争における米ソの極秘協力」を著したリチャード・ラッセルは「プロジェクト・フラは、第二次大戦で最も野心的で、成功した米ソの協力プロジェクト」と評価している。

マイルポストが満州など大陸での戦争を想定した広範な物資の備蓄だとすると、プロジェクト・フラは千島列島など島嶼部への上陸作戦を想定してソ連の太平洋艦隊を増強するための支援ととらえることができる。

ソ連側の求めに応じる形で、マイルポスト作戦とプロジェクト・フラは、独ソ戦を支援するために行われてきた従来のレンド・リース(武器貸与法に基づく支援)とは別枠で実施された。

※ルーズベルト大統領は、1941年3月にレンド・リース法を成立させ、ドイツと戦うイギリスなど連合国に対して大規模な武器援助を開始した。6月にドイツが不可侵条約を結んでいたソ連に攻め込むと、国内世論の反対を押さえてソ連に対してレンド・リース法を適用し、大量の軍需物資を提供していた。支援総額は1941年の開始から1945年までの間に113億ドルに上った。

マイルポスト、プロジェクト・フラが進行中の4月12日、ナチス・ドイツと戦っていたソ連をレンド・リースによる大量の物資で支え、日本との戦争に引き込むためにマイルポストやプロジェクト・フラという極秘作戦を立ち上げ、ソ連が望むものを提供してきたルーズベルト大統領が死去した。

その死を悼んで、ソ連への移管に向けて訓練中だった上陸用舟艇USS -551は半旗を掲げて哀悼の意を表した。

ルーズベルトの後を引き継いだのは副大統領のトルーマンだった。ソ連に対して厳しい姿勢を示していたトルーマンの登場で、つかの間の米ソ蜜月は終わり、日本との戦争における、アメリカの対ソ政策は変化していくが、プロジェクト・フラがすぐに停止されることはなく、艦船のソ連への移管作業は9月5日まで続いた。

日本との戦争における米ソ極秘協力「プロジェクト・フラ」により米海軍からソ連海軍に移管された艦船149隻は、1945年8月–9月のソ連軍による樺太南部、朝鮮半島、千島列島、そして北方四島への侵攻・占領に使用された。

  南樺太への上陸 米国艦船21隻(掃海艇17、駆潜艇4)

  北千島・占守島(※竹田浜)上陸  米国艦船20隻(上陸用舟艇16隻、掃海艇4隻)

そして、上陸用舟艇や掃海艇、護衛艦11隻が1945年8月28日から9月5日までに行われた北方四島上陸・占領作戦に使用された。

北方領土で穏やかに暮らしていた島民は、自分たちがまったく知らないところで、ふるさとの領有がやり取りされ、アメリカが求めたソ連の対日参戦によって、父祖伝来の島々を追われることになる。

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