択捉島に30年以上住み、地元紙「赤い灯台」の記者として働いたアナトリー・サモリュクさんが2023年に出した本『私たちは普通の日本人と一緒に始めました! (クリル諸島1945 – 1950)』«Начинали вместе… с простыми японцами! (Курильские острова: 1945 – 1950 гг»を読んでみた。
どんな本かというと、択捉島の地元紙「赤い灯台」はこう紹介している。
「この本はソ連の人々によるクリル諸島(北方四島を含む千島列島)開発の最初の数年間をテーマにしている。この時期のことを書いた本はほとんどない。この作品の価値は、その歴史的正確さにある。その時代からそれほど時間が経っていないにもかかわらず、私たちは事実の歪曲、あらゆる種類の神話、そして完全な捏造に対処しなければならないことがよくある。アナトリー・サモリュクさんはアーカイブや博物館の研究資料等にある党会議の議事録、CPSU(ソ連共産党)メンバーの個人ファイルなどを引用し、事実を丁寧に追っている。1940年代後半から1950年代初頭の島民の生活に関するクリル住民の思い出と写真は、読者の注目を集めずにはいられないだろう」(2023/9/8付テレグラム)
読み進めていくと、これまで聞いたことがない出来事についての記述に出くわした。択捉島の日本人島民についてソ連の地元当局がまとめた文書に記録されているもので、その事件は1946年(昭和21年) 11月に紗那で起きた。以下、その部分を『私たちは普通の日本人と一緒に始めました! (クリル諸島1945 – 1950)』」から引用する。
ロシア語の通訳がいたいくつかの集落で、10月29日の記念日(注:1917年のソ連10月革命)を祝う講演会や集会が開かれました。クリリスク市(注:紗那)での集会では、宗教指導者(住職)のハナヴォ・ゼング氏が演説し、革命をどう理解すべきか、革命の違いは何か、1917年のロシア革命がなぜ社会主義革命と呼ばれているのか、ロシア国民は何を達成したのかを分析しました。彼は次のように語りました。『私たちは教えられ、教育され、そして今度はロシアのあらゆるものに対する敵意の精神で国民を教育しましたが、実際にはその逆でした』。
集会の後、11月7日の夜、ハナヴォ・ゼング氏の家で日本人が集まって飲み会が開かれました。ハナヴォ・ゼング氏の家に同居していた貯蓄銀行の管財人であるアレエワさんは、彼に酒をつぎました。彼女は最初、コップに半分の酒を注ぎ、水で薄めました。ハナヴォ・ゼング氏はそれを拒み、純粋な酒を要求しました。アレエワさんが彼の言う通り、コップ半分以上の純粋な酒を注ぐと、ハナヴォ・ゼング氏はそれを一口で飲みました。その後も飲み会は続きました。ハナヴォ・ゼング氏は酒を飲んで楽しく過ごしましたが、翌11月8日に気分が悪くなり、次の日の9日に死亡しました。
彼の親族は遺体の解剖を許可しませんでした。ハナヴォ・ゼング氏の死には疑念がありました。なぜなら、飲酒後20時間ほどは気分が良かったのに、50グラムの酒で死に至るはずがないからです。集会での彼の演説を気に入らなかった人々によって毒殺されたという結論が自ずと浮かび上がってきます。
文中「宗教指導者(住職)のハナヴォ・ゼング氏」とあるのは択捉島・紗那にあった法傳寺の住職Hさん(当時45歳)のことではないかと思われる。記録を調べてみると、H住職は1946年(昭和21年)11月9日に島で死亡しており、地区当局がまとめた文書にある日付とも合致している。
文書では、ソ連の10月革命を祝う集会で、H住職が、それまで教え込まれてきたソ連と実際に見て体験したソ連は大違いだったと社会主義を礼賛する内容の演説をした直後に亡くなったことから、「彼の演説を気に入らなかった人々によって毒殺された」可能性を示唆し、暗に日本人による犯行をにおわせている。
ソ連の10月革命を祝う集会に日本人島民が引っ張り出されたという話は初めて聞いた。大方、日本人の中から誰か代表を出して、いかにソ連の社会主義が素晴らしいかを話さなければならなくなり、H住職が代表してそんな話をしたのだろうと思う。
元島民が樺太経由で日本本土に引き揚げる際、樺太・真岡の収容所でも同じようなことが強要された。引揚船に乗船する何日か前に集会が開かれ、島民の代表がスターリンへの感謝や社会主義を礼賛する挨拶をした。
択捉島・紗那国民学校の校長だった青田武貴さん(1990年に88歳で死去)は、代表として挨拶することになった知り合いの島民から頼まれて、原稿を代筆した。その時、作成した挨拶原稿を持ち帰った。歯の浮くようなスターリンへの感謝と社会主義礼賛がしたためられているが、そうしなければ、まだ島に残されている日本人がどういう目に遭うかわからないと心配したという。
H住職は本当に殺害されたのか、たまたま病気で亡くなったか、今となっては分からない。誰もが面従腹背で生き残るしかないソ連占領下の暮らしであれば、スターリンや社会主義を礼賛したくらいで、日本人が腹を立てて毒殺に走るとは到底思えない。たまたま集会の直後に亡くなったことを利用して、日本人による犯行をにおわし、日本人同士、疑心暗鬼の状態に置いておきたかったのかもしれない。
『私たちは普通の日本人と一緒に始めました! (クリル諸島1945 – 1950)』に掲載されている写真から。「クイビシェフスキー村(留別) での戦勝記念日コンサート。1946 年。I. クヴァチ撮影。GIASO。166_P. 39-11」
この写真は1946年に北方領土の択捉島・留別で撮られたものだ。ソ連人カメラマン のクヴァチが撮影したネガをもとに2015年にサハリンで出版された写真集「千の島を巡る1946年のクリル探検」に掲載されている。撮影日が分かっている。ソ連軍の侵攻からほぼ1年後の1946年9月3日。日本人島民とソ連人が「混住」していた時期に開かれたコンサートのようだが、ただのコンサートではなかった。択捉島で初めて開催された「対日戦勝記念日」を祝うコンサートだった。会場はソ連軍が最初に上陸した留別の競技場とあり、背景にサッカーのゴールが2つ写っている。ステージはトラックの荷台のようだ。聴衆を見ると、軍服姿のソ連人に交じって、子供たちが写っているが、日本人の子供のように見える。